2019年01月29日

神が、真の父母が、霊界が、サタンが、いつも私と共にある?! 《金元弼先生》



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どこかへ行くときには
私だけ行くのではなく、
神が、霊界が、すべてが
私たちと共にいて
眺めている



金元弼(キム ウォンピル)先生の「生活伝道」より。
今回は、「目に見えないものと共にある生活」を紹介します。


私たちお互いが一緒に考えなければいけない点を話しましょう。

私たちは、目で見える、五感で感じることのできるもの、
それだけが存在すると考えがちです。
それは危険な考え方です。

一人でいて、だれもいなければ人のものを盗むことができる、
しかし人が見ていると、これを持っていくことはできないということです。

私たちの今までの過ちは何でしょうか?
それは自分を中心とする考え方からきます。

それは言うまでもありませんが、しかしまた私たちは
「だれも見ていない」という考えをもっているからともいえます。
しかし、私を見ている者はいるのです。


まず自分の心を考えましょう。
心は見えません。
しかし心は私を見ているのです。

夫婦がいるとするならば、その体と体は見えます。
しかし見えない心が私を見ています。
私の心が見ています。

私たちがどこにいても、神が、霊界が、真の父母が、
常に私たちがいる所に共におられるのです。
しかし私たちは、肉的五感だけをもって生活していますから、
それをいつも忘れてしまいます。


私たちはこのように、ご父母様のお写真を置いています。

もし私たちが、真の父母と神に常に侍る生活をするとするならば、
お写真が必要でしょうか?
必要ではありません。

私たちは見える世界で生きていて、
常に見える物だけが存在すると考えながら生活していますから、
常に自分だけしかいないと考えるのです。

ですからそういう心を刺激するために、
このようにお写真に侍る生活をするのです。


キリスト教では、イエス様の十字架をどこにでも置いているのです。
なぜでしょうか?

常にイエス様に侍る心をもって暮らすとするならば、
十字架は必要ではありません。

そうではなく、見える物だけ存在すると考えるから、
そういう物を置くのです。
分かりますか?


私たちには心があるではないですか。
私たちは常に心と相談できるのです。

そういう生活をすれば、常に見えないものと共にある生活をしますから、
神を、真の父母を、善なる霊界を意識しながら
共に生活することができるというのです。

私たちはいつも自分たちだけでいるのではないのです。
心が私と共にあるごとく、神が、真の父母が、霊界が、
サタンが、いつも私と共にあることを考えるべきだというのです。

どこかへ行くときには私だけ行くのではなく、
神が、霊界が、すべてが私たちと共にいて
眺めているという生活をしなくてはいけないのです。

私たちはこういう機会を通して、常に自分だけではない、
常に見られている、という生活をしていきましょう。



目に見えないものと共にある生活こそが、
侍る生活なのだと思います。

頭ではわかっていながらも、目の前のことが忙しく
現実のことに追われてしまう・・・
そういったことを悔い改めないといけないと思います。
逆に現実に飲まれそうになる時ほど、
心を見つめる生活が重要なのですね。

もっと、心を中心として生活すれば、
見えないものが見えてくるようにも思います。





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posted by ten1ko2 at 08:39 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする