勝利の栄光は、
まず第一に神に帰し、
次に犠牲となった人たちに
全部返さなければいけません
まず第一に神に帰し、
次に犠牲となった人たちに
全部返さなければいけません
☆
金元弼(ウォンピル)先生の『伝統の源流』
「犠牲の上にある今の私」の続きです。
☆
自分のために犠牲になったたくさんの人たちに、
感謝の気持ちを返さなければいけません。
悟るとは、人を犠牲にしてできるものなのです。
夫婦の関係も同じです。
私が相手を愛するようになったということは、
相手をたくさん苦しめたせいなのです。
愛さなければいけないと悟ったということは、
過去には愛せなかったということです。
愛せなかったということは、相手を苦しめたということです。
星がたくさん付いている将軍が偉いのですか、
何も付いていない(一)兵卒が偉いのですか。
星がたくさん付いているということは、
たくさんの部下を殺したということと同じです。
ですから戦争に勝った将軍は、第一に誰を訪ねますか。
空のように高い位の将軍でも、一番下の兵卒に頭を下げます。
それは、その人たちの死によって、勝利がもたらされたからです。
その星は、彼のものではなく、その人たちのものなのです。
☆
ですから、勝利の栄光は、まず第一に神に帰し、
次にその人たちに全部返さなければいけません。
それを自分や自分の家庭に返したら大変です。
自分や自分の家には、その人たちが返してくれるのです。
皆さんが、色々習った、あるいは悟ったというときには、
自分で悟った、自分で習ったというのではなく、
犠牲になったメンバーによって習うことができた、
ということを忘れてはいけません。
足らないリーダーなのに、ほいほいと待ったのは、
リーダーが好きだからではなく、神の啓示があると思ったからです。
だから、何かを習ったときには、まず神に感謝をし、
メンバーに全部返さなければなりません。
問題児だという人に返さなければいけないのです。
☆
そうしないと、どういうことが起こるでしょうか。
メンバーは皆様を尊敬しませんし、恐る恐る仕えるでしょう。
そういう人を通じては何もできません。
主体と対象の授受作用ができません。
そこには神が運行せず、何も繁殖せず、悪の循環でしかなくなるのです。
☆
例えば、「水を持ってきてください」と言って頼んだとしましょう。
そのリーダーが嫌いなのに、それは命令だから従わなければいけない
という気持ちだったら、喜んで行くでしょうか、顔をしかめて行くでしょうか。
また、コップにごみが付いているのを見て、心の調子が良い時には、
「私のリーダーがこれを飲んだら病気にかかってしまう」
と言って全部ふき取ります。
それを飲んだら体が良くなるでしょうか、良くならないでしょうか。
しかし、命令だからと思って、寂しい心が水に混じって
一緒に入っていたら、いいはずがないですね。
愛を込めた水と心情を込めた水を飲んだらどうでしょうか。
皆様が霊的に明るくなれば、それが分かります。
☆
握手にしても、友達と握手をする場合に、
嫌な人と握手しなければならなくて仕方なく握手する時と、
本当に愛する人と握手する時と、形はみな同じですけれども、内容が違います。
同じように目を見ても、本当に哀れんで見るのと、憎い心で見るのと全然違います。
だから皆様が、本当に愛してメンバーや兄弟に対しているのかということは、
その目を見たら分かるのです。
☆
大なり小なり、元弼先生のご指摘は、
私にもあてはまるようです。
とても耳痛い内容ですが、
頭を下げて聞かなければならないと思います。。。
また、謙遜に受け止めなければならない、
そのように思わざるを得ません。
み言を聞いていながら、
何でこのような発想になるのかな。
そのように思う人がいます。
しかし、私も五十歩百歩ですよね。。。
天の父母様が見つめる観点で、
その人を見つめていけるように、
器をもっともっと広げていかなければと思わされました。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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