名医とは、
たくさんの人を
犠牲にしたということが前提になる。
たくさんの人を
犠牲にしたということが前提になる。
☆
金元弼(ウォンピル)先生の『伝統の源流』
今回は、「犠牲の上にある今の私」です。
☆
皆さん、先生のことを考えてみましょう。
韓国の元老の牧師さんたちが、先生を訪れました。
その時、先生は彼らに、
「実を言えば、あなたと私は敵です。
あなたは私に反対して、韓国から追い出そうとしました」
とお話ししました。
☆
ヤコブには十二人の息子がありましたが、
十一人の兄弟はヨセフを殺そうとして追い出しました。
ところが殺そうとしたヨセフが総理大臣となってから、
彼らはヨセフの所へ来て謝りました。
ヨセフは、自分を殺したのと同じ立場のその兄弟を許しました。
なぜ許すことができたのでしょうか。
それはヨセフが親に侍らなければいけないはずなのに、
彼がいない時に、兄たちが侍ってくれたというところを見て許したのです。
☆
ユダヤ教とかキリスト教が、先生に反対しました。
それと同じです。
しかし、先生はどのようにして愛する心をもたれたのでしょうか。
統一教会をなくそう、滅ぼそうとし、
先生を追い出そうとしたことは、許されるものではないのですが、
6000年の歴史を通じて、ユダヤ教とキリスト教が
神を支えてこなかったならば、どうなっていただろうかと考えるときに、
許すことができるというのです。
☆
ですから自分を中心としないで、あくまでも神を中心としてこそ、
許しの心が出てくるのです。
ただ漠然と、「愛さなければいけない、愛さなければいけない」
というのでは駄目なのです。
「なぜ兄弟を愛さなければいけないのか」
「なぜ人々を愛していかなければいけないのか」
そういう心をもたないと、許しの心をもつことはできないのです。
☆
皆さんが、過去を振り返って
「私はたくさんのことを習い、悟りました」と言えるようになるまでには、
それぐらいたくさんの人を傷つけたお陰だということを忘れてはなりません。
もし、先生が私の代わりにチームを指導したならば、
あのようにしなかったはずなのに、と考えるだろうと思います。
それはいいことです。
☆
これをもっと分かりやすく、印象的にするために、名医の話をしましょう。
ある人が医学大学を卒業しました。
彼はお医者さんになって患者を診るようになり、
学校で習ったとおりに人を診断し、治し始めました。
最初はよく分からないところがあって、学校で習ったとおりにやりました。
ところがかえって効果がなく、患者は非常に苦しみました。
それでもう一つのことを試みましたけれども、また駄目でした。
このようにして彼は、いろいろな経験を積みました。
それから後は、人をよく診断して治すようになったのです。
それで彼は、名医と呼ばれるようになりました。
名医とは、たくさんの人を犠牲にしたということが前提になるのです。
お分かりですか。
名医になった人は、まず誰に感謝しなければいけないのでしょうか。
自分でしょうか、自分を教えた先生でしょうか。
もちろん、そうでしょう。
しかしそれよりも前に、自分のために犠牲になったたくさんの人たちに、
感謝の気持ちを返さなければいけません。
悟るとは、人を犠牲にしてできるものなのです。
☆
とても深いみ言ですね。。。
今、自分の置かれている人間関係において、
何かその人を理解できない状況に直面した時、
まずは、「神様がその人をどう見ているのか」
そのことを先立てていかないといけないな、
そう思わされました。
今も自分の姿を見れば、足りないと思うのですが、
もっと若いときのことを考えると、
「あの時、このように話していれば・・・
こういう風に、講義をしていれば・・・」
そんな悔いが多く出てきます。
ですから、金元弼先生の語られるように、
昔出会った人たちに感謝の念を捧げたいと思いました。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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