浅川先生の自叙伝書写講話から、
愛天愛人愛国の愛人、
人を愛することについてです。
☆
笑顔で愛する
笑顔で愛する
人を愛することは笑顔を振り向けることです。
神様は人間だけに笑顔を与えてくださいました。
どんなにかわいい犬でも、笑うことはできません。
人間だけが笑えるのです。
笑うためには、眉毛が下がり、口が丸くならなければなりません。
犬は口が突き出ていて、おまけに歯は牙となっています。
到底笑うことはできません。
このハンディをしっぽでカバーしているのです。
☆
なぜ、神様は人間だけに笑いを下さったのでしょうか。
それは、隣人や家族を幸福にするためです。
食べるためだけなら、笑いは必要ありません。
現に、犬や猫は笑えないのに食べているではありませんか。
人を幸福にし、自分が幸福になるために、笑顔があるのです。
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文鮮明先生は、次のように語っています。
「ほほえみは幸福の根源であり、
根となるものです」(『愛天愛人愛国』55ページ)
「いつも笑顔でいなさい。
笑顔は心の花です」(同、54ページ)
「微笑が幸福の根である」ということは、笑わなければ幸福になれないということです。
まさに、幸福だから笑うのではなく、「笑う門には福来たる」なのです。
☆
特に女性の笑顔は幸運を引き寄せます。
レオナルド・ダ・ヴィンチの不朽の名画に「モナリザの微笑み」があります。
絵画の中の絵画といってもいい名画です。
しかし、どんなに絵画技法が天才的であっても、
「モナリザのやぶにらみ」だったら名作にはならなかったでしょう。
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さらに、文鮮明先生は女性が幸福になるために、不思議なことを語られています。
「女性は、十種類の笑いを分別して
笑うことができなければなりません」(同、55ページ)
「えっ、十種類の笑いってなあに……」と思わず叫んでしまいます。
ただ笑えばいいというものではなく、時と場所と相手によって
笑いを使い分けなくてはならないということなのです。
女性が、笑い時と笑い場所、そして笑う相手を使い分けたら幸せになれるというのです。
☆
例えば、一日の中で、笑い時は何といっても朝です。
一日を四季に例えれば、朝は春に相当します。
春、花や果物の種をまくように、朝、幸福の種をまくのです。
朝の笑顔は幸せの種まき、といっていいでしょう。
では、どこにまくのでしょうか。
ベランダではありません。
玄関です。
☆
夫が仕事に出掛けるときに飛び切りいい笑顔で送り出すのです。
この瞬間、奥さんは気立ての良い女神様になります。
妻の笑顔で、夫は気分良く出掛け、仕事も順調に進み、
お土産を買って帰ってくるかもしれません。
奥さんは笑っただけでプレゼントがもらえるのですから、
これほど投資効果があるものは他にありません。
ところが、ある奥さんは、朝、笑っているにもかかわらず幸福になれませんでした。
夫が玄関から出たあとで笑っていたからです。
夫が出たあと、気分が爽快になるからだそうです。
やはり、笑うにも時があるのです。
夫が転んだ時に笑えば、あざ笑うになります。
けんかの種まきになってしまいます。
☆
あるご主人が家に帰ってみたら、家が冷蔵庫のように冷え切っていたそうです。
冷気が漂っています。
「ただいま」と何度言っても、奥さんから返事がありません。
しかし、玄関に靴があります。
家にいることは間違いありません。
食堂からトン、トンと大根を切る音だけが響いてきます。
食堂に行ってみると、キラリと光る包丁を片手に持って
奥さんがニヤリと笑ったそうです。
これは不気味な笑いです。
ぞっとして、恐ろしくなったご主人は、
体を温めるために家からどこかに出て行ったそうです。
☆
また笑い方も相手によって変えなければなりません。
夫の前では、きゃっきゃと屈託なく笑ってもいいが、
同じ笑い方を姑(しゅうとめ) や舅(しゅうと)の前では
しないほうがいいと、文鮮明先生は教示しています。
品がないと思われかねないからです。
うまく使い分けた笑顔は「心の花」になるのです。
花には蝶(ちょう)が引き寄せられます。
幸運が引き寄せられるのです。
また、ミツバチが来ます。
財運も来るのです。
浅川 勇男・著
(光言社・刊『心の書写〜文鮮明師自叙伝に学ぶ〜』より)
【第四章】愛天愛人愛国
愛人─人を愛する生活
(光言社・刊『心の書写〜文鮮明師自叙伝に学ぶ〜』より)
【第四章】愛天愛人愛国
愛人─人を愛する生活
☆
「笑う門には福来る」ということわざがあります。
悩んでいるから笑えないのではなく、
笑おうとしないだけなのかもしれません。
おかしいから笑うのでなく、
笑うことによって福の神が来る、というのです。
厳しいみ旨を歩んでいる私たちこそが、
そのような者にならなければいけないな。
そう思わされます。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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