2019年03月28日

子供の叱り方がわからない?! “しつけ”上手になる3ヶ条 《松本先生の教育知恵袋》



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家庭教育のスペシャリスト、松本雄司先生が、
子供の躾(しつけ)について
明確にアドバイスしてくださっておられます。



甘やかしすぎたお兄ちゃん

あるお母さんから相談がありました。
「うちの子は、もう中学生になったのに甘えん坊で困ります」と言います。

「毎日の生活はどんな様子なんですか」と聞いてみますと、

「おはようと言っても、返事も満足にできないし、
部屋の片付けは全くできないし、
朝も私が起こしてやらないと起きられないんですよ…。
下の子は小四ですが、お兄ちゃんがそんな状態なので、
そのまま影響を受けそうで心配です」

「お子さん達のことについて、ご主人とは話し合ってみましたか?」

「ええ、夫に話したら、『そんなだらしないことじゃ、
大人になったら社会では通用しないんだぞ!』と言って怒られたんですが、
結局、『小さい時にきちんとしつけができていなかったということだね…』
と二人で反省しました」

厳しく叱ってみたが…

「その後は、どうされたんですか?」

「はい、それで、『よし、これからはもっとちゃんとやらせよう』
ということになって、夫も私も、日常の生活面で厳しく叱ることにしたんです。

しかし、上の子は口をきかなくなるし、
弟のほうも反発するばかりで、どうもうまくいきません。
“しつけ教育”というのは、どのようにしたらいいんでしょうか?」

同じような相談を受けることはよくあります。
幼少時にしつけをしておかないといけない…ということは分かるのですが、
「具体的に、何を、どのように教えたらよいのか、よく分からない」
という悩みにぶつかるのです。



先生泣かせの子どもたち

子供が一人前の社会人に成長するまでに受ける教育は、
「家庭教育」「学校教育」「社会教育」という三つの要素がありますが、
最も基本的な教育としての“しつけ”は、
やはり、「家庭教育においてしかできない」と言えます。

学校教育というのは、知識の伝授が中心であり、
よほどの教育熱心な教師に恵まれない限り、
人格教育としてのしつけまでを学校に期待するのは無理があります。

もっと言えば、学校というところは、本来、
家庭での“しつけ教育”を土台とした上で行くべきところなのです。

ところが、最近は、家庭において“しつけ”が
されないままに入学してくる子が多いので、
学校では授業中に、隣同士でしゃべったり、
いたずらして喧嘩したり、勝手にトイレに行ったり、
掃除や給食当番を忌避したり…といった行動がおこり、
教師が授業に集中できないというような事態も起きています。

いわゆる「学級崩壊」現象です。

“しつけ”の三ヶ条“
しつけ”は幼少時、遅くとも小学生のうちに、
家庭できちんと身につけさせることが最善です。

では、何を、どのように教えたらよいのでしょうか。
(はし)や鉛筆の持ち方をきちんと教えるということは大前提のことですが、
基本的な「しつけの三ヶ条」というものがあります。

  1. 朝、親に挨拶をすること。

  2. 親に呼ばれたら、「はい」と返事をすること。

  3. 履物を脱いだらきちんとそろえ、席を立ったらイスを入れること。


“しつけ”は、最低この三つのことが
きちんとできるようにすればよいというのです。


第一の「挨拶」と第二の「返事」ができるようにする
というのは“我”がとれるようにするためです。

人は“我”の抜けていないうちは、自分から挨拶することも、
素直に返事をすることもできません。
これらが素直にできるようになれば、
大人になっても人間関係をうまくやっていけます。

また、第三の「靴を脱いだらきちんとそろえ、席を立つときはイスを入れる」
…これは美しい身だしなみであり、物を大切に扱う心でもあります。

さらに、自分のしたことに責任をとるということであり、
けじめをつけるということであり、
周囲の人達のことを考えて行動するということでもあります。



母親がやって見せながら、優しく教える

“躾(しつけ)”とは、
「身を美しく」と書き、礼儀作法を身につけさせることです。

このような“身だしなみ”が身についた人物は、
社会人になっても、礼儀正しく、節度のある人物となり、
人々の信頼を得るであろうことは、容易に察することができます。

“しつけ”は、特に母親に大きな役割があります。
まず、親が見本を見せなければなりません。

毎朝、夫に対して「おはようございます」と挨拶をし、
夫から呼ばれたら「はい」と返事をしましょう。

そして、玄関に入ったらきちんと靴をそろえ、
席を立つときはイスを入れて見せながら教えるのです。

愛情を持って、優しく根気よく教えれば、
必ず、子供の身についていきます。

愛の知恵袋 56しつけ上手なお母さんに
(APTF『真の家庭』166号[8月]より)
松本 雄司(家庭問題トータルカウンセラー)



しつけは、家庭教育でなければできない。。。
まさに、アーヂュです。
「しつけの三ヶ条」も的確なアドバイスですね。

ちなみに我が家はどうでしょうか。
どれも完璧ではないですね。

『愛情をもって、優しく根気よく』これもそうだと思います。
うちの三男は、子供たちの中で、
(おそらく)一番の勉強嫌いですが、
妻が、まさに松本先生のアドバイスのごとく、
優しく根気よく接していく中に、
三男も少しずつ、家で勉強し始めました。

ただ、子供たちに要求する以上に、
まずは親から始めなければならないことも、
本当にそうですよね。

家庭教育に関しては、過去を振り返ると、
反省しきりなので、あきらめず、
前を向いていきたいと思っています。





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2019年03月27日

み旨や仕事で一日が終わりではない、もう一つの大事な仕事?! 《元弼先生の伝言》



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橘先生の「夫婦愛講座」、
今日は、故・李ヨハネ(イ ヨハン)先生と、
金元弼(キム ウォンピル)先生から受けた、
貴重なみ言を紹介してくださいます。


今年1月に李耀翰(ヨハネ)先生が聖和(逝去)されました。
 
信仰を持って間もない頃、私は先生の著書
『信仰と生活』を一生懸命読んでいました。
とりわけ、復帰摂理の中心人物を取り上げての内容にひかれていました。

そんな20代のある時、先生の講話を松濤本部で聞く機会がありました。
一言も漏らすまいと一生懸命聞く中で、
特に印象に残った一点があります。

正確な言葉は覚えていませんが、

「摂理には神が働く。
だから摂理を進めるために活動すれば、神が働き結果は出る。

けれど、結果が出たからと言って、
それだけで心情が育つわけではない」


という内容で、心にストンと入りました。

 
1990年代、私がヨーロッパにいた当時、
お父様(文鮮明先生)の一番弟子・金元弼先生が顧問のような立場でおられて、
ヨーロッパのメンバーからとても慕われていました。

先生がリーダーズ・ミーティングで語ってくださる内容は
(私が聞いた限り)毎回同じものでした。

夫も妻も、み旨(教会の活動)や仕事が終わって家に帰ったら、
それで一日が終わりではない。
もう一つの大事な仕事が待っている。
夫として父として、妻として母として、家族を愛することだ、
それをしっかりやりなさい、というものでした。
 
私が所属する教会にいらしてくださった時も、
説教の内容はやはり夫婦愛を育むことでした。


それまでの功績に対してお父様が元弼先生を表彰された時、
先生は家に帰って、その賞状を逆さにして奥さまに渡されたそうです。
奥さまのおかげで表彰された、奥さまから頂いた賞状だ、
と感謝をそのような形で伝えられたのです。

先生が聖和される前に最後の願いとしておっしゃった言葉を
息子さんが紹介されています。
 
「私が死んで、
(先に聖和した)お母さん(鄭達玉先生)と一緒に合葬するときに、
ほかに何も必要ない、
『元弼の妻・達玉、達玉の夫・元弼』とだけ書いてくれ。
墓石も要らないし、私の生涯も書く必要はないし、
私の敬称も書く必要がない。
私が持っていくものは、神様の愛と、愛する私の妻だ」

(『世界家庭』2017年6月号より)

まさに「天国」=「二人の国」の境地ではないでしょうか。


ややもすれば、私たちは忙しさの中で(あるいは忙しさを言い訳にして)
「もう一つの大事な仕事」をおろそかにしてしまうことがあるかもしれません。

そんな時、立ち止まって自分を振り返り、
神様と向き合い、家族と真摯(しんし)に向き合う
時間を持つよう、心掛けていきたいものです。


夫婦愛を育む 58
「…だけでは情は育たない」
ナビゲーター:橘 幸世


元弼先生のメッセージ、
何だか胸にジーンとくるものがありますね。。。
そして、私たちが、目指すべき目標であるな、
そんなことを感じました。

み旨でいろんなことがあると、
何か、妻に感情をぶつけてしまうことがあります。
み旨だけでないかも知れません。
人間関係の中で、日々の生活の中で、
思うようにいかない時、
その思いをぶつけてしまうのです。

人それぞれかも知れませんが、
妻は自分の分身のような立場なので、
何か、感情をぶつけたり(ぶつけられたり・・・)
まぁ、お互い様かも知れませんね。。。

もっと夫婦で、お互いを貴く思い、
もう一つのみ旨をしっかりと果たさなければ、
そんな風に思わされます。





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posted by ten1ko2 at 07:29 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年03月26日

地獄で恐ろしいものは?! 地獄でも疎まれる人たち 証言集 《浅川先生霊界シリーズ》



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ダンテ「神曲」地獄篇より☆


浅川先生の霊界講話シリーズ、
地獄篇の3回目。

今日はあまりに生々しい内容になりますが、
実際に見てきた人の
「地獄からの証言」です。


地獄で恐ろしいのは人間関係です。

地獄とは、自分のことしか考えられない人間のたまり場です。
極悪人だけが集まる世界なので、互いが互いを罵倒し合い、
嫌な言葉を言い合い、けんかをし続ける世界です。

不平不満、怒り、憎悪、憎しみ、怨(うら)みなどの
人間のもつ醜悪な面しかない世界が地獄です。

実際に地獄に行って、地獄の光景、地獄のありさまを
見た人たちの証言を列挙してみましょう。


「地獄の現場で、ある霊人の姿を見ました。
彼は地上生活で億万長者でしたが、
自分中心にばかり生きてきた人でした。

その人の家の前には
『億万長者、意固地な人』という立て札がついていました。
そこはあらゆる悪臭が漂う監獄でした。
彼は自分の服や毛布についているしらみを
つかまえて食べながら、ようやく過ごしていました」

このように報告されています。

地獄には確かに住居があって、そこに立て札が立っているのですが、
「山田太郎」などという名前の立て札ではなく、
「億万長者、意固地な人」と、その人の
意地汚い「性格」が書いてあるというのです。

そして食べ物がないがゆえに、
自分にたかったしらみを食べながら、
ようやく生きながらえている光景を語っています。


「ある大男がいて、一人で食事をすることができず、
そばにいる霊人たちが彼に食事を食べさせてあげていました。

驚いたことに、彼らが食べている食べ物の大部分は、
いとみみずや蜘蛛(くも)の糸のようなものでした」

地を掘ってみみずを掘り出してすすって食べたり、
蜘蛛の糸を食べたりしています。
これが地獄の食べ物だということです。

 
「指をけがした老人が、手が不自由で、食べ物をつかめずにいると、
周りにいた若者たちが、
その老人の器を奪って自分の口にほうり込んでいる」

地獄では老人の介護などというものはないし、
ますますいじめられ、虐待されるということが分かります。

 
「髪を剃(そ)られた若い女性が、
恥ずかしくて手ぬぐいで頭を隠していると、
人が寄ってきて、その手ぬぐいをはぎ取って、顔を拭いている」

地獄では女性は弱者としていじめられています。
手ぬぐいを取って、そして平気で
みんながあざ笑っている世界であるというのです。

 
「ある女性が、男性から捨てられ、
肺結核となって自殺をした。

霊界に行っても多くの霊人から肺結核患者とさげすまれ、
咳をすればあっちに行け、口を閉じて息をしろ、
収容所に収容せよと、周りの霊人たちが大騒ぎをしている」

霊界に行っても病気が治らないというのは、
その病気になった原因に問題があります。

この女性は不倫を犯して、男性から捨てられ、
肺結核となって自殺をしたのです。

その病気の経路というものが、不純な情欲や殺意にからんだ場合、
霊界に行っても治らないということが分かります。

肺結核の患者として地獄に落ちて、周りの人たちから
肺結核患者だと、咳をするたびに嫌がられ、
「収容所にほうり込め」と言われて、いじめられているのです。

 
「不倫の子供を生んで死んだ女性が、
霊界で赤ん坊を抱いたまま、
その赤ん坊と一緒に泣いている姿が見られる。

皮膚から汚物がだらだらと流れ、
そばに行くと、魚の腐るにおいよりも
もっとひどいにおいがする女性がいた。

そして暗い世界、奇怪なうめき声、絶叫する悲鳴。
人間のもつ一番醜い姿、そういう姿が羅列している世界です」

と、このように証言しています。

浅川 勇男・著
(光言社・刊『幸・不幸と霊界の仕組み』より)
第三章 地獄とは



いやぁ、本当に、知れば知るほど、悲惨な世界ですね。。。
誰もが、「こういうところには行きたくない」
そのように思うのではないでしょうか。

私たちは、霊界が見えないし、感じられません。
霊的にとても敏感な人、霊媒体質のような、
特別な人しか、見えません。

死んでみたら地獄だったということには
なりたくないですね。

また、霊界にいる人が解怨されると、
地獄から天国、ありとあらゆる世界を見せられるそうですね。
必然的にどこに行きたいか、一目瞭然です。

とにかくも、人がどうとかいうのではなく、
私自身が、本心に忠実な、
正午定着の歩みをしていかなければ、と
改めて感じさせられます。





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posted by ten1ko2 at 08:42 | Comment(0) | 霊界 霊人と共に歩む生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする