2019年03月25日

み言は本だけでは学べない?! 苦労の中で神に出会う 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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李ヨハネ(イ ヨハン)先生のみ言、
今回は、「苦労の中で神に出会う」です。


先生は獄中生活や苦労を通して神の事情を知られたのです。

取るに足らない人間たちの苦労を通して、
神の悲しみを見つけた先生なのかもしれません。
先生が命を懸けて血の涙を流しながら実践され、経験されて
神と出会った秘訣が原理なのです。

ですから、私たちも本で勉強したり、
言葉で伝えるだけではだめだと思うのです。
み言を聴いたあと、苦労する生活で
生命を復活させなければならないのです。

苦労の中で神と再び出会わなければなりません。
十字架を背負っていきながら、
神に再び出会わなければならないということです。

苦労の中で間違うと、神と出会うべきところで出会えなくなります。
ゆえに一番難しい立場で不平を言うのか、感謝するのかによって、
神に出会うのか出会えないのかが決まります。


イエス様が十字架で亡くなられるとき、イエス様も含めて三人がいたでしょう。

それは何を表すのかというと、苦痛を受けたときに
どんな態度をとるべきかを見せてくれたのです。
十字架を背負うには背負ったけれども、左の強盗のように恨むのか、
右の強盗のように主を信じて従うのか。

どのように十字架を背負わねばならないのでしょうか。


石枕をして横になっているヤコブが、
自分が嘆かわしい身の上になったとは少しも考えず、
イサクが祝福祈祷したときの思いに酔っているとき、
エホバが突然現れました。

このことは、十字架を背負っても悲しいと思わず、
そのときこそ神を探さねばならないということを意味します。


苦労するとき、苦労の中に神がいらっしゃると考えれば間違いありません。
苦労は祝福です。
苦労と苦痛を通じて神に出会います。
神は苦痛の中に隠れているかたなのです。

なぜでしょうか。
人間の堕落によって、六千年間
悲しみの中に埋もれていたかたであるからです。

神にいつ栄光がありましたか。
この地上で、いや天宙で一番悲しい方というのは、神しかいないのです。


それでは神は、この地上で
一番悲しい人はだれだと言われるでしょうか。

孤児と寡婦が一番悲しい人であると聖書で言っています。

その理由は、神が一人悲しい立場にあり、子女を失った父の立場なので、
神がそのように悲しいのと同様に、親のない子、子も夫もない女、
この二人が一番悲しいといったのです。

この地で孤児が一番かわいそうだとすると、
子女を失ったその親はどうでしょうか。
孤児よりも悲しいでしょうか、悲しくないでしょうか。
もっと悲しいのです。

ですから神は悲しみの中に埋もれ、苦痛の中にいらっしゃるかたです。
この地上で神に出会った人で、茨の道、死の十字架の中で
神に出会ったと言わない人がどこにいるでしょうか。

1977年7月10日(日)韓国・中央修練所
説教、中央修練所教会、創立礼拝
「神の苦痛」より


遠藤周作の小説では、神は「沈黙」した
というのですが、実際はヨハネ先生の言われるように、
苦痛を味わう時に神様がいなかったのではなく、
感謝して求めていくと、
神様と出会うことができるのです。

昔、学生部時代に、
「神様と出会うためには、苦痛を味わないといけない、
『苦痛を与えてください』と祈ったら、
本当に試練に会うんですよ」
そんなことを先輩に言われ、
本当に求め、祈ったのですが、
そうしたら、拉致監禁の体験をしてしまいました。

その時には、とてつもない大きな試練でしかなかったのですが、
実際に、「いつも私のとなりに」おられる神様を
感じることができました。

今になって思うと、
私自身がもっと神様に近ければ、
そういった状況にはならずに、
氏族を復帰できる道があったのかもしれませんが。

恨み、憎しみ、悲しみにしか通じないような、
つらい苦労の環境の中においても、
神様、真の父母様が、ともにおられ、
通過してこられたのだ。。。
そのように思うことができる私たち。
感謝以外の何物でもありませんね。






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posted by ten1ko2 at 09:52 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年03月24日

霊肉ともの大人事! 孝進様、興進様と、妍娥様、薫淑様 《真の子女様追慕礼拝》



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文孝進様の命日が3月17日でしたが、
毎年、その時期、聖和された真の子女様たち
喜進様、恵進様、栄進様、興進様、孝進様の
追慕礼拝が行われています。

peaceTVで特集していましたので、
ご紹介します。


文姸娥天宙平和連合 韓国会長

今や、2020年!
1年も残っていません。
その残り少ないこの期間、私たちが、この地に生きているので、
共におられる真のお母様に侍り、
進んで行くことのできる貴い時間があることを、
もう一度記憶する、きょう、この日となることを願います。



李基誠 神韓国家庭連合会長(祝祷)

今、私たちは強く、大胆に進んで行かなければなりません。

孝進様がベルリンの壁に向かって、強く大胆に歩まれたように、
私たちも恐れることなく、前進することができるようにして下さい。

その前進する道の上で、私たちが犠牲になるならば、
それは、天上の永遠の世界において、最も大きな栄光の場になることを知って、
恐れることなく前進する、私たちとなり、
勝利者の位置に、皆が同参することができるように、切に願います。


「天一国7年 聖和真の子女様追慕礼拝」
3月16日、HJ天宙天寶修錬苑



真のお父様の祝祷

この者が、長子の福を受けて行くことを誇りに思い、
祈祷をたくさんしてあげ、
皆さんが情熱を持って行くべき道に、
進まなければなりません。
アーヂュ!


(孝進様聖和時の祝祷)


真のお母様のみ言

お父様が霊界に行かれたため、今や、
霊肉界を中心として四位基台は全て造成されました。

父母様を中心として四位基台は
すでに造成されたことを、知っていますね?
情心苑に行けばあるでしょう。

真の子女の中で、孝進お兄さん、興進お兄さんは、人類の前に、
父母様の前で、真の孝子、忠臣の道理を果たした息子たちです。

常に共にする心で、皆さんが第一線において生活するならば、
霊肉において、皆さんに
大きな役事と力をもたらす源泉となるでしょう。

(2015.10.9などを編集)



妍娥様は、「(よく生き)よく死になさい」というみ言を握り締め、
瞬間瞬間を生きられた、孝進様を回顧しながら、
「死を置いて、天の前に、人生を評価されることができるのは、公平である」と伝え、
人生の価値についての悟りのメッセージを伝えられたとのことです。

短い抜粋ではありますが、妍娥様も李基誠会長も、
いかに実践するか、そのことを強調しておられます。

お母様は、四位基台は全て造成された、
はっきりと語られています。

霊界において、お父様、孝進様、興進様が一つであるように、
地上では、お母様、妍娥様、薫淑様が一つになっています。

そういった意味で、
妍娥様が天宙平和連合の会長になられ、
薫淑様が女性連合の会長になられたのは、
とても意味があるように思わされます。

真の父母様を意識しつつ、
霊界でお父様と完全に一つになっておられる、
孝進様と興進様をもっと意識しながら、
実践することを通して、
天の父母様と真の父母様を証しする、
私たちとなっていきたいと思うのです。




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posted by ten1ko2 at 07:55 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年03月23日

~ある食口の発見~ 天の計らい?! 1991電撃北韓訪問で、奇しくもたどったのは 



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真の父母様の故郷北朝鮮。
真のお父様は、南韓の摂理が失敗したあと、
神様の啓示を受けて、
1946年6月から、1950年12月に南下されるまで
北朝鮮におられました。

1991年真の父母様が北朝鮮に電撃訪問されましたが、
その際、不思議なことに、
北朝鮮側が準備された平壌(ピョンヤン)の滞在場所等、
行くところ、行くところが
お父様のゆかりの地だったといいます。
全く同じところに、再び訪問されているのです。

調布家庭教会副壮年部長の田中さんから
いただいた情報の一部を、紹介します。

以下、田中さんが調べ上げられた成果として、
5つの場所があげられています。
本当に、驚くべき因縁を感じます。


1.万寿台(マンスデ)国会議事堂

万寿台国会議事堂は1991年12月1日、
北の幹部を前にして立ち上がった文先生は
「主体思想では南北統一できない」と説教した場所です。
自叙伝にも書かれている有名なシーンです。

後に2013年になって韓国MBCNETで放映された
『平和を愛する世界人』番組中に初公開の秘蔵映像として登場します。
          45年前

 伝道活動の中心だった「景昌里(キョンチャンニ)

万寿台国会議事堂の建っている場所は45年前、
文先生が38度線を超えて北に入り1946年6月から伝道活動された
「景昌里」の集落跡地です。
文先生は景昌里の信徒の家を拠点に伝道し、礼拝の説教をしていました。




2.平壌凱旋門と凱旋門広場

1991年12月2日、牡丹峰迎賓館で明け方北朝鮮を伝授する式を終えた後、
ご一行は市内観光の一環として平壌凱旋門を視察します。
朴普熙先生著の『文鮮明師の電撃的な北朝鮮訪問』の中には、
平壌凱旋門を訪れた一行の写真が掲載されています。
          45年前

 逮捕され拷問を受けた「大同保安署」

平壌凱旋門が建っている凱旋門広場の45年前は、
文先生が1946年8月から11月まで逮捕され激しい拷問を受け
箕林里という地にあった「大同保安署」の跡地です。

日本統治時代は大同警察署であり、
解放後は大同保安署となりました。
平壌凱旋門を訪れた一行の写真のうち、
文先生が立っているその位置はまさに大同保安署跡地です。



3.牡丹峰(モランボン)貴賓館(興富国賓館)

真の父母様ご一行が平壌滞在時の牡丹峰貴賓館。
1991年12月2日明け方には重要な特別祈祷会をされました。

牡丹峰貴賓館は国賓館であり、現在の別名称は「興富国賓館」とされています。
大同江の眺めがよい牡丹峰の東麓、
半円状の崖のようになった地にあります。
興富国賓館(牡丹峰貴賓館)の場所はWikiMapiaで確認できます。
この場所は過去には高句麗時代からの古刹である永明寺がありました。
          45年前

 かつて聖地としてたびたび祈られた「牡丹峰」

景昌里を平壌での伝道活動の中心として歩まれていたとき、
復帰された信徒と一緒にここ牡丹峰にたびたび訪れて、
平壌の聖地として祈られた場所です。

牡丹峰=牡丹台や、乙密台などの小高い山が続く丘陵となっていて、
東側は大同江が南北に流れている有名な景勝地です。
この峰の上に立てば、大同江や平壌の町並みの眺望が効きます。

文先生は金仁珠女史など信徒に早くから
牡丹峰に建てる聖殿の構想を語っています。

あるときは先生とジョンファ氏、そして私と三人でモラン峰に祈梼しにいったことがある。
モラン峰に上がると平壌市内が全部見える。
その下に乙密台があってその山並みが「エデン宮を建てる所だ。」と啓示を受けて先生に申し上げたところ、先生は「そこは場所がいいので聖殿を建てようかと考えたことがある。」と語られた。

信仰手記「証言」第1集〔金仁珠〕より



4.木蓮館招待所(9号宴会場)

平壌到着の1991年11月30日夜、歓迎晩餐会が開かれたのは木蓮館招待所です。

文先生はメッセージを読み、翌日の『労働新聞』に演説全文が掲載されましたが、
史上初めて朝鮮労働党機関紙に『神様』の単語が載りました。

木蓮館の別名は「9号宴会場」であることが、
後の金正日委員長の専属料理人であった藤本健二氏の談話で伝えられています。
広大な敷地に、中央宣伝部を始めとした党の主要施設が建っており、
その一角に「9号宴会場(宴会所)」があります。
          43年前

 興南行きの前に収監された「平壌刑務所」

9号宴会場、つまり木蓮館招待所が建っている場所は、
その昔「平壌刑務所」があった跡地です。

平壌刑務所は、文先生が興南収容所へ移送される前、
有罪の判決を受けて1948年4月から5月にかけて収監されていた場所でもあります。




5.万景台(マンギョンデ)と金日成生家

1991年12月1日最初の市内観光として、
真の父母様ご一行は金日成生家がある万景台を訪れていました。
          41年前

 避難時に舟で大同江(デドンガン)を渡った万景台

41年前の1950年12月4日夜、まさに中国人民義勇軍が攻まりくる中、
金ウォンピル先生、足を骨折していたため
自転車に乗せられた朴正華氏と文先生の3人は、
平壌中心部から西約7〜8キロの距離にある今の万景台まで来ます。

舟着場にあった小舟に乗りこんで大同江を渡ります。
一行は対岸に着くやそのまま南下を始めます。

ちなみに、大同江を小舟で渡った対岸の地名は
「文發島(ムンパルド)」「文發里(ムンパルニ)」でした。
まさに「文氏が(南へ)発つ島(里)」
であったことは驚き以外の何ものでもありません。
深夜であり、文先生もウォンピル先生も
対岸の地名などわかる術はなかったことでしょう。

真のお父様の証し

南の方に出るには、大同江を渡らなけれぱならないから、そこから今の金日成の故郷である万景台、
そういうところまで行って、そこから船に乗る。

その時ちょうど、牢屋で霊界から伝道された朴という
男がおったね。(中略)それでお婆さんに会って帰る
間際に、朴さんがどこどこにいるという連絡を受けて、その朴さんを連れて南の方に出発したんだ。

しかし、足が悪いというから歩くことが出来ないね。
それで、その家にある自転車に乗せて後押しして、
今の万景台というところで船に乗っかって
大同江を渡って南の方に動きだしたんだ。


(僑胞への御言・1974年5月12日杉並にて)



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西東京教区壮年部
調査・資料作成:田中(調布家庭教会)

知られざる東京・神奈川の聖地巡礼ウォーキング
−文鮮明先生が日本留学時代に歩んだ品川・四谷・川崎・鶴見を訪ねて−
〔拡張編〕平壌に見るメシアの歩んだ地のすさまじい意味



この資料をくださった田中さんは、
「東京神奈川の知られざる聖地巡礼」
(西東京壮年部主催)の企画を進め、
ガイド役として案内を務めていらっしゃいます。

品川・川崎・四ツ谷などの真のお父様が歩まれたゆかりの地を
調査研究し、その成果を
書写大会のときにパネル展示で発表しておられるということです。

聖地巡礼の内容も先日送ってくださったのですが、
お父様が昔、日本におられた時、
品川や川崎のどこでお仕事をされたのか、
貧民窟で生活された場所とか、
細かい情報を調べ上げておられます。

写真や地図が多いので、ブログには掲載しづらいのですが、
いつか紹介できればと思います。


上の内容について田中さんは、
「平壌を訪問する一つ一つのその場所が、
あたかも過去を元返すかのように強い因縁と関係をもった場所
であったことが驚き以外の何ものでもありません。
真の父母、メシアの歩む場所、ゆかりの地の
すさまじいほどの意味深さを実感させられます」
そのように語っておられます。

本当に素晴らしい発見をされました。
真の父母様が1991年に訪朝された時に、
様々な場所に行かれたわけですが、
お父様が行きたいところを示されたのではなく、
北朝鮮政府が指定したところを案内したのだと思います。

そこここが、20代のお父様が北朝鮮におられた時と
まさに同じ場所だったとは。。。
「文發島、文發里」の記述なんて、
鳥肌ものですよね。

まさか北朝鮮が調べ上げて、
あえて同じ場所を訪問するように設定したのでしょうか。
そうだったとしたら、
北朝鮮もお父様に敬意を払っている表れのような気もします。
たまたま、偶然同じ場所だった、とも考えられます。

いずれにしても、「昔いたところに来ている。。。」
お父様は、このことを、霊的に感じておられたのではないかと思います。
神様がお父様の訪朝を心から歓迎しておられる、
そのように感じていかれたのではないでしょうか。

1991年に北朝鮮に行かれた真の父母様を
さらに深い思いで見つめることができ、
感慨深いものがありました。

田中さん、貴重な情報をありがとうございました。





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posted by ten1ko2 at 08:51 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする