李ヨハネ先生のみ言。
続編です。
☆
苦労の中で神の悲しみを知った先生
苦労の中で神の悲しみを知った先生
統一原理が発見したのは神の悲しみです。
人間の責任の不履行ゆえに、
地上にそのみ旨を成せなかった神の恨(ハン)を発見しました。
今日、私たちが大きく信仰を転換しなければならないのが、
正にこの点です。
☆
今、私たちが自分の事情から抜け出せないのは、
自分の十字架を背負って苦しみ、
時に合わせて心霊復活できないからです。
また私たちの心霊が育たないのは、
各自が皆自分の十字架を背負って苦しみ、
天の事情に立つことができないからです。
私たちが和睦できない理由も、
各自が自分の心配に陥っているからなのです。
その理由は簡単です。
各自が、苦労と経験ゆえに自分の何かを持つようになったのです。
自分というものが形成されたのです。
苦労をたくさんしながらも、人を理解することのできる
人間にならなければならないのに、かえって人を疎んじ、
厭世観や疎外意識を持ち、人を全く裏切る人間になりました。
多くの苦労を経ながら全体に責任を持とうとする人がいません。
☆
先生は多くの苦労を通して、神の言うに言えない
悲しみを知ったかたではないかと思います。
多くの人は、苦労の中でかえって世を見失い、
お互いの間の情も失います。
苦労を通して失敗した人は多いけれど、苦労を通して多くの人を包み込み、
人を理解する、愛の豊かな寛容な人間になった人はあまり多くありません。
信仰の出発も大変ですが、
疲れないでずっと我慢してやり通すことはさらに大変です。
自分の今までの生活を振り返ってみると、長い間復帰の道を歩む中で疲れ、
これ以上もう歩めないと思うときもあったはずです。
そのような生活を通して苦労し、人を許し、理解し、
全体にさらに責任を持とうとして「苦労よ、もっとやって来い」と言うのは、
簡単なことでしょうか。
苦労を通して、もっと苦労しようというのは簡単ではありません。
ところが先生は多くの苦労を通して神と出会い、神の悲しみを知っていかれたのです。
☆
先生はいつ神とそのように近く出会うようになったのでしょうか。
どんな出来事を通して、神と出会ったのでしょうか。
ヤコブは石枕をしてエホバの神と出会い、
モーセはミデアン荒野の茨の中でエホパと出会いました。
茨の中で神に会ったということは、すなわち苦労の中で神と出会ったということです。
神と出会った人たちを見ると、みんな死の世界、
絶望的な状態で神と出会いました。
右の強盗は、十字架の絶望の中でメシヤに会い、楽園に行ったのです。
十字架にかかって父子の関係を結びました。
イエス様が十字架に行く前のユダヤ教は、僕の宗教だったのです。
ところが右の強盗はそのように十字架を通じて父子の関係を結びました。
その次には、アブラハムのイサク献祭の路程です。
アブラハムのイサク献祭は、神がアダムを失った痛みを見せてくれたのです。
このように旧約の一部を通して、神の一番の悲しみを私たちに見せてくれました。
二番目に、イエス様が十字架を背負う場面は神の痛みを自ら体験し、
息子として父の悲しみと悔しさをご自身の体に背負われたものでした。
☆
「神の悲しみ」、神様の心情を知り、
しっかりと解いて、原理として私たちに
教えてくださったお父様。
歴史的な神様の恨を解く大きな発見でした。
苦しい時、自分の思うようにいかない時、
そういう試練の時ほど、チャンスなのだ、
李ヨハネ先生は励ましてくださいます。
真のお父様が心情の十字架を味わう時に、
神様の本当の姿に出会われたように、
ヨハネ先生も、同じような体験をされ、
そして、お父様と同じように、
生きた神様との出会いをしていかれました。
先生はかつてクリスチャンで、牧師の経験もありますから、
そういう中での試練だったのではないかと思われます。
苦しい時ほど、神様が近くなり、
真のお父様が近くなる。
ある意味では、感謝なことだと思います。
不定期に続きます。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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