李ヨハネ(イ ヨハン)先生の説教、
「神の苦痛」の続きです。
☆
痛みを分かち合うとは
痛みを分かち合うとは
父母の心を悲しませたことが罪になりました。
原罪というのは、神の心を悲しませたことなのです。
原罪を清算するということは、侍ることによって
神の痛い心を解いてさしあげるということです。
神の痛い心を解いてさしあげたあとになって、
原罪が清算されるというのです。
神が共にいることのできる人になろうとすれば、
死んでも再び生き返らなければならず、
悲しみを抱いている神と
共にいようとするなら、神の悲しみを
まず引き受けなければなりません。
そのためにイエス様も十字架を背負い、
神の悲しみと痛みを自ら引き受けました。
同時に不信の痛みも引き受けました。
そうやって父子の関係を結んだのです。
☆
痛みをお互いに分かち合うとは、
情と情が結ばれたということです。
痛みと痛みが通じるときに、その中に
愛が流れ、永遠なものになります。
このように痛みを味わった神であるということを、
私たちは頭ではよく理解しています。
しかし、その境地を実感することが大切なのです。
それゆえ、神の苦痛に至るために、
いろいろな苦痛をよく昇華させていかなければなりません。
☆
お父様の痛みに至ろうとするなら、
自分が受ける痛みや苦しみを天のものと感じなければなりません。
その苦痛を通して天のお父様の心情を見つけるのです。
そのようにして苦痛を通して、
神と父子の関係が結ばれていくのです。
☆
知ってみれば、平安というのは幸福ではありません。
ですから、信仰し始めた人に救済品をあげたり、
病気を治してあげたりすると、他人になりやすいのです。
入ってきてすぐ世話になる人の大多数は、
大抵、他人になります。
入ってきて苦労する人や、入ってきて損害を受ける人こそ、
信仰の道を行くようになります。
☆
「十字架を背負って私に従ってきなさい」という言葉は、
ちょっと考えると残酷な言葉のように感じます。
「死のうとしてこそ、私はあなたたちとともにいる」
という言葉は残酷な言葉です。
アブラハムに対して「イサクを刃物で裂きなさい」と言われました。
残酷な命令のようですが、分かってみると
残酷なみ言ではなく、祝福のみ言でした。
天が当面した事実に対して、神の心中を探り、
入っていこうとすれば、苦痛の道を歩まなければなりません。
また、神を悲しませてきた私自身が
神の愛を受けることのできる道は、苦痛の道以外にはありません。
1977年7月10日(日)韓国・中央修練所
説教、中央修練所教会、創立礼拝
「神の苦痛」より
説教、中央修練所教会、創立礼拝
「神の苦痛」より
☆
アブラハムのイサク献祭のように、
その時は試練のように見えても、
神様は祝福を与えたいと思っておられる、
そのことを改めて感じます。
「神の愛を受けることのできる道は、苦痛の道以外にはありません」
これは試練を通過して、越えたことがない人は、
理解できないことですね。
イエス様もそうだったし、お父様もそうでした。
そして、今はお母様がその道を行かれています。
「筋肉は裏切らない」で話題のNHKの筋肉体操。
指導する講師が、「キツいけど、つらくないっ」
そのように言う場面があります。
「キツいけど、楽しいからやるんです。
楽しいと楽なのは違います」
この前インタビューで言っていました。
まさにみ旨に通じますよね。
楽しい心情を持ちつつ、
試練を越えていきたいと思います。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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