2019年03月07日

十字架は祝福だった?! 神の悲しみを引き受け、苦痛を昇華 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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李ヨハネ(イ ヨハン)先生の説教、
「神の苦痛」の続きです。



痛みを分かち合うとは

父母の心を悲しませたことが罪になりました。
原罪というのは、神の心を悲しませたことなのです。

原罪を清算するということは、侍ることによって
神の痛い心を解いてさしあげるということです。
神の痛い心を解いてさしあげたあとになって、
原罪が清算されるというのです。

神が共にいることのできる人になろうとすれば、
死んでも再び生き返らなければならず、
悲しみを抱いている神と
共にいようとするなら、神の悲しみを
まず引き受けなければなりません。

そのためにイエス様も十字架を背負い、
神の悲しみと痛みを自ら引き受けました。
同時に不信の痛みも引き受けました。
そうやって父子の関係を結んだのです。

 
痛みをお互いに分かち合うとは、
情と情が結ばれたということです。
痛みと痛みが通じるときに、その中に
愛が流れ、永遠なものになります。

このように痛みを味わった神であるということを、
私たちは頭ではよく理解しています。
しかし、その境地を実感することが大切なのです。

それゆえ、神の苦痛に至るために、
いろいろな苦痛をよく昇華させていかなければなりません。

 
お父様の痛みに至ろうとするなら、
自分が受ける痛みや苦しみを天のものと感じなければなりません。

その苦痛を通して天のお父様の心情を見つけるのです。
そのようにして苦痛を通して、
神と父子の関係が結ばれていくのです。

 
知ってみれば、平安というのは幸福ではありません。
ですから、信仰し始めた人に救済品をあげたり、
病気を治してあげたりすると、他人になりやすいのです。

入ってきてすぐ世話になる人の大多数は、
大抵、他人になります。
入ってきて苦労する人や、入ってきて損害を受ける人こそ、
信仰の道を行くようになります。

 
「十字架を背負って私に従ってきなさい」という言葉は、
ちょっと考えると残酷な言葉のように感じます。

「死のうとしてこそ、私はあなたたちとともにいる」
という言葉は残酷な言葉です。

アブラハムに対して「イサクを刃物で裂きなさい」と言われました。
残酷な命令のようですが、分かってみると
残酷なみ言ではなく、祝福のみ言でした。

天が当面した事実に対して、神の心中を探り、
入っていこうとすれば、苦痛の道を歩まなければなりません。
また、神を悲しませてきた私自身が
神の愛を受けることのできる道は、苦痛の道以外にはありません。

1977年7月10日(日)韓国・中央修練所
説教、中央修練所教会、創立礼拝
「神の苦痛」より


アブラハムのイサク献祭のように、
その時は試練のように見えても、
神様は祝福を与えたいと思っておられる、
そのことを改めて感じます。

「神の愛を受けることのできる道は、苦痛の道以外にはありません」
これは試練を通過して、越えたことがない人は、
理解できないことですね。

イエス様もそうだったし、お父様もそうでした。
そして、今はお母様がその道を行かれています。

「筋肉は裏切らない」で話題のNHKの筋肉体操。
指導する講師が、「キツいけど、つらくないっ」
そのように言う場面があります。
「キツいけど、楽しいからやるんです。
楽しいと楽なのは違います」
この前インタビューで言っていました。

まさにみ旨に通じますよね。
楽しい心情を持ちつつ、
試練を越えていきたいと思います。





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posted by ten1ko2 at 09:21 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする