李ヨハネ(イ ヨハン)先生の信仰サプリ、
「神の苦痛」の続きです。
☆
父母のための苦痛の生活が忠孝の生活
父母のための苦痛の生活が忠孝の生活
放蕩息子を見ると分かるでしょう。
自分の父母に干渉されるのが嫌で家を出た息子が、だれの言葉に従うでしょうか。
自分の父母にも従わない者が、この世で父母のように自分に対してくれる人に、
どこに行ったら会えるというのでしょうか。
家を出た息子が、だれに侍り、だれから愛を受けるのでしょうか。
愛を受ける主体に会えるはずはありません。
寂しくなり苦しむしかないのです。
なぜでしょうか。
自分を愛してくれる父母に干渉されるのが嫌で出ていったので、
それ以上の人に会えないのが放蕩息子の立場であり、
それ以下の人には会えるけれど、
それ以下の人を通じては満足できないからです。
日がたてばたつほど悲しみが深まり、家に帰るしかなくなるのです。
それと同じように、神から離れた人が
神の心情にたどりつかないで、どうして幸福だといえますか。
神を離れた人が何をもって平安だといえますか。
そうしてみると、人間も大変です。
私たちの罪は何でしょうか。
始祖の堕落で神を限りなく悲しませたことが罪となったのです。
☆
それでは、神が悲しまれたことに対してどうするつもりですか。
まず私の生活圏内で、悲しいことから求めていこうというのです。
私の十字架から背負い、その次には兄弟の十字架も背負い、
そして天のお父様の悲しみを共に感じることのできる心情を育てていき、
復帰の苦痛の道を行かなければなりません。
そうして最後に、神の悲しみを引き受ける仕事が残ります。
すぐには引き受けられません。
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放蕩息子が家に戻ってどこから出発しなければならないのかというと、
僕の立場からです。
そこから始めて、その僕たちの中で一番の僕にならなければなりません。
僕の中で一番になれないなら、
親不孝したことを元返して孝行をするとはいえません。
僕にもなれなくては、父母の悲しみを解くことはできません。
一番の僕になって、僕たちから
「二番目の息子は、以前は父母をとても心配させたのに、
今では孝行者になったなあ」と証されなければならないのです。
☆
父母の心情を求めて苦労するのが孝です。
ゆえにみ言を中心とした、苦労と苦痛の十字架の道を行く生活が、
結局は忠孝の生活になるのです。
ところが、私たちは今まで父母に孝行しようという言葉が、
父母の十字架を背負うという意味であることを知りませんでした。
神に侍ろうということが、
神の十字架を私が背負うということであることを知りませんでした。
子供が本当に子供らしいというのは、
父の悲しみを感じられるときに言う言葉だと思います。
☆
旧約時代は、神がアブラハムを通して、ご自身の痛い心を表現されました。
新約時代は、イエス様を通じて、神の痛みを解く方法を見せてくださいました。
このように見るとき今日の信仰者たちは、
イエス様の十字架を自分の十字架に替えてあげてこそ、
主と私が、あなたと私の関係になるのです。
自分の十字架を背負って主に従う者は、イエス様と兄弟の立場ではなく、
僕の立場の信仰者であるといえます。
イエス様の十字架を背負ってこそ、
イエス様と兄弟の関係にある信仰者なのです。
1977年7月10日(日)韓国・中央修練所
説教、中央修練所教会、創立礼拝
「神の苦痛」より
説教、中央修練所教会、創立礼拝
「神の苦痛」より
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1977年のみ言ですから、
この頃には、まだ「孝情」という言葉がありませんでしたが、
今でしたら、「忠孝」というところに、
「孝情」の文字が入るような内容だと思います。
私の今置かれている環境の中で、
苦痛にある、ということは、
究極的には、神様を、真の父母様を
求めていかなければならない、
そのことを悟るまで、そういう状態にあるのかもしれません。
思うようにいくことも感謝ですが、
思うようにいかないことも感謝なのだ。。。
そんな風にも感じさせられます。
み旨においては、証しを立てることができずに、
申し訳ない限りなのですが、
天と一つになるしかない、
そう思って、乗り越えていきたいです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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