李ヨハネ(イ ヨハン)先生の説教、
「神の苦痛」の続編です。
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公的な十字架
公的な十字架
不信の讒訴条件なしに十字架を背負えば、勝利するようになります。
十字架を背負って勝利するということは、
私のための十字架は終わったということです。
いつ終わりになるのでしょうか。
自犯罪と遺伝罪が終わればよいのです。
信仰基台、実体基台さえなせば、自分の十字架は終わるのです。
それ以上讒訴条件がないということです。
霊的に見ても誇ることができ、地上人間の立場で見ても
褒められるようになれば、個人の十字架はなくなります。
その次からは、公的な十字架を背負い始めるようになります。
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公的な十字架というのは、イエス様の十字架、神の十字架です。
統一教会の祝福家庭は、だれの十字架を引き受けなければならないのでしょうか。
真の父母の十字架を引き受けねばなりません。
真の父母の心配を引き受ける段階にいなければならないのです。
そうしてこそ真の父母に侍るようになるというのです。
自分による苦痛はこれ以上つくってはなりません。
私が受けている苦痛は父の事情圏内に入り、
私は私ではなく私は父のものであるという信念と実感を持って
信仰圏を越えて心情圏内に入り、養子の立場に立って、
息子としての十字架を背負わなければなりません。
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その息子としての十字架とは何か。
地上で人間関係を中心とした横的な十字架を通して、天の悲しみを
引き受けることのできる実力を育てなければならないということです。
養子というのは何かというと、天の事情を相続していく過程だといえます。
子女の立場での生活において、すべての事情を父の事情として感じ、
心情から天を喜ばせることのできる孝心を持たねばなりません。
教会長の皆様は、養子の立場にあって心情の復活ができるでしょう。
自分の生活のためにではなく、自分の目的があるからでもなく、
冷遇や迫害が問題ではなく、父の事情を知って献身的に教会の仕事に従事したのです。
したがってこのような養子圏内に入ることのできる感情が復活しさえすれば、養子になれます。
なぜか。天から派遣され献身的に働いているので、少したやすくなれるというのです。
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自分の個人生活を主とする食口は、養子圏内に入るのが本当に難しいのです。
なぜなら自分の事情圏を超えることができないからです。
また、自分を主とした信仰だけで生きるようになると、
僕の圏内から脱するのが大変です。
すなわち「自分の生活をしながら信じる。
私は平信徒のままで信じる。
自分の生活は自分がしなければならない。
教会の事情はさしおいて何はともあれ自分の事情を解決しなければならない」
と考えるような食口は、僕の位置から上がることが難しいのです。
自分の生活を主とする信仰をするとそうなります。
しかし、教会長ぐらいになると、自分の生活よりも
教会の心配をするようになるのです。
天の父の生活を部分的に引き受けることになるので、
養子圏内で育つようになります。
私たち責任者が養子復活をはっきりとなして、
食口たちをりっぱに復活させなければなりません。
1977年7月10日(日)韓国・中央修練所
説教、中央修練所教会、創立礼拝
「神の苦痛」より
説教、中央修練所教会、創立礼拝
「神の苦痛」より
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天の願いを知れば、事情がわかり
天の事情がわかれば、心情に通じる、
真の父母様の心情と一つになること、
それが、私の責任である・・・
先日の礼拝で、教会長が話してくださいました。
物事を自分中心で考えるのではなく、
与えられた環境全てを、
天の父母様、真の父母様に置き換えて、
願い、事情、心情を求めていく、
そのような者になっていかなければならない。。。
ヨハネ先生のみ言を通して、
そんなことを感じさせていただきました。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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