李ヨハネ(イ ヨハン)先生のみ言、
今回は、「苦労の中で神に出会う」です。
☆
先生は獄中生活や苦労を通して神の事情を知られたのです。
取るに足らない人間たちの苦労を通して、
神の悲しみを見つけた先生なのかもしれません。
先生が命を懸けて血の涙を流しながら実践され、経験されて
神と出会った秘訣が原理なのです。
ですから、私たちも本で勉強したり、
言葉で伝えるだけではだめだと思うのです。
み言を聴いたあと、苦労する生活で
生命を復活させなければならないのです。
苦労の中で神と再び出会わなければなりません。
十字架を背負っていきながら、
神に再び出会わなければならないということです。
苦労の中で間違うと、神と出会うべきところで出会えなくなります。
ゆえに一番難しい立場で不平を言うのか、感謝するのかによって、
神に出会うのか出会えないのかが決まります。
☆
イエス様が十字架で亡くなられるとき、イエス様も含めて三人がいたでしょう。
それは何を表すのかというと、苦痛を受けたときに
どんな態度をとるべきかを見せてくれたのです。
十字架を背負うには背負ったけれども、左の強盗のように恨むのか、
右の強盗のように主を信じて従うのか。
どのように十字架を背負わねばならないのでしょうか。
☆
石枕をして横になっているヤコブが、
自分が嘆かわしい身の上になったとは少しも考えず、
イサクが祝福祈祷したときの思いに酔っているとき、
エホバが突然現れました。
このことは、十字架を背負っても悲しいと思わず、
そのときこそ神を探さねばならないということを意味します。
☆
苦労するとき、苦労の中に神がいらっしゃると考えれば間違いありません。
苦労は祝福です。
苦労と苦痛を通じて神に出会います。
神は苦痛の中に隠れているかたなのです。
なぜでしょうか。
人間の堕落によって、六千年間
悲しみの中に埋もれていたかたであるからです。
神にいつ栄光がありましたか。
この地上で、いや天宙で一番悲しい方というのは、神しかいないのです。
☆
それでは神は、この地上で
一番悲しい人はだれだと言われるでしょうか。
孤児と寡婦が一番悲しい人であると聖書で言っています。
その理由は、神が一人悲しい立場にあり、子女を失った父の立場なので、
神がそのように悲しいのと同様に、親のない子、子も夫もない女、
この二人が一番悲しいといったのです。
この地で孤児が一番かわいそうだとすると、
子女を失ったその親はどうでしょうか。
孤児よりも悲しいでしょうか、悲しくないでしょうか。
もっと悲しいのです。
ですから神は悲しみの中に埋もれ、苦痛の中にいらっしゃるかたです。
この地上で神に出会った人で、茨の道、死の十字架の中で
神に出会ったと言わない人がどこにいるでしょうか。
1977年7月10日(日)韓国・中央修練所
説教、中央修練所教会、創立礼拝
「神の苦痛」より
説教、中央修練所教会、創立礼拝
「神の苦痛」より
☆
遠藤周作の小説では、神は「沈黙」した
というのですが、実際はヨハネ先生の言われるように、
苦痛を味わう時に神様がいなかったのではなく、
感謝して求めていくと、
神様と出会うことができるのです。
昔、学生部時代に、
「神様と出会うためには、苦痛を味わないといけない、
『苦痛を与えてください』と祈ったら、
本当に試練に会うんですよ」
そんなことを先輩に言われ、
本当に求め、祈ったのですが、
そうしたら、拉致監禁の体験をしてしまいました。
その時には、とてつもない大きな試練でしかなかったのですが、
実際に、「いつも私のとなりに」おられる神様を
感じることができました。
今になって思うと、
私自身がもっと神様に近ければ、
そういった状況にはならずに、
氏族を復帰できる道があったのかもしれませんが。
恨み、憎しみ、悲しみにしか通じないような、
つらい苦労の環境の中においても、
神様、真の父母様が、ともにおられ、
通過してこられたのだ。。。
そのように思うことができる私たち。
感謝以外の何物でもありませんね。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
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