浅川先生の霊界講話シリーズ、
地獄篇の3回目。
今日はあまりに生々しい内容になりますが、
実際に見てきた人の
「地獄からの証言」です。
☆
地獄で恐ろしいのは人間関係です。
地獄とは、自分のことしか考えられない人間のたまり場です。
極悪人だけが集まる世界なので、互いが互いを罵倒し合い、
嫌な言葉を言い合い、けんかをし続ける世界です。
不平不満、怒り、憎悪、憎しみ、怨(うら)みなどの
人間のもつ醜悪な面しかない世界が地獄です。
実際に地獄に行って、地獄の光景、地獄のありさまを
見た人たちの証言を列挙してみましょう。
☆
「地獄の現場で、ある霊人の姿を見ました。
彼は地上生活で億万長者でしたが、
自分中心にばかり生きてきた人でした。
その人の家の前には
『億万長者、意固地な人』という立て札がついていました。
そこはあらゆる悪臭が漂う監獄でした。
彼は自分の服や毛布についているしらみを
つかまえて食べながら、ようやく過ごしていました」
このように報告されています。
地獄には確かに住居があって、そこに立て札が立っているのですが、
「山田太郎」などという名前の立て札ではなく、
「億万長者、意固地な人」と、その人の
意地汚い「性格」が書いてあるというのです。
そして食べ物がないがゆえに、
自分にたかったしらみを食べながら、
ようやく生きながらえている光景を語っています。
☆
「ある大男がいて、一人で食事をすることができず、
そばにいる霊人たちが彼に食事を食べさせてあげていました。
驚いたことに、彼らが食べている食べ物の大部分は、
いとみみずや蜘蛛(くも)の糸のようなものでした」
地を掘ってみみずを掘り出してすすって食べたり、
蜘蛛の糸を食べたりしています。
これが地獄の食べ物だということです。
☆
「指をけがした老人が、手が不自由で、食べ物をつかめずにいると、
周りにいた若者たちが、
その老人の器を奪って自分の口にほうり込んでいる」
地獄では老人の介護などというものはないし、
ますますいじめられ、虐待されるということが分かります。
☆
「髪を剃(そ)られた若い女性が、
恥ずかしくて手ぬぐいで頭を隠していると、
人が寄ってきて、その手ぬぐいをはぎ取って、顔を拭いている」
地獄では女性は弱者としていじめられています。
手ぬぐいを取って、そして平気で
みんながあざ笑っている世界であるというのです。
☆
「ある女性が、男性から捨てられ、
肺結核となって自殺をした。
霊界に行っても多くの霊人から肺結核患者とさげすまれ、
咳をすればあっちに行け、口を閉じて息をしろ、
収容所に収容せよと、周りの霊人たちが大騒ぎをしている」
霊界に行っても病気が治らないというのは、
その病気になった原因に問題があります。
この女性は不倫を犯して、男性から捨てられ、
肺結核となって自殺をしたのです。
その病気の経路というものが、不純な情欲や殺意にからんだ場合、
霊界に行っても治らないということが分かります。
肺結核の患者として地獄に落ちて、周りの人たちから
肺結核患者だと、咳をするたびに嫌がられ、
「収容所にほうり込め」と言われて、いじめられているのです。
☆
「不倫の子供を生んで死んだ女性が、
霊界で赤ん坊を抱いたまま、
その赤ん坊と一緒に泣いている姿が見られる。
皮膚から汚物がだらだらと流れ、
そばに行くと、魚の腐るにおいよりも
もっとひどいにおいがする女性がいた。
そして暗い世界、奇怪なうめき声、絶叫する悲鳴。
人間のもつ一番醜い姿、そういう姿が羅列している世界です」
と、このように証言しています。
浅川 勇男・著
(光言社・刊『幸・不幸と霊界の仕組み』より)
第三章 地獄とは
(光言社・刊『幸・不幸と霊界の仕組み』より)
第三章 地獄とは
☆
いやぁ、本当に、知れば知るほど、悲惨な世界ですね。。。
誰もが、「こういうところには行きたくない」
そのように思うのではないでしょうか。
私たちは、霊界が見えないし、感じられません。
霊的にとても敏感な人、霊媒体質のような、
特別な人しか、見えません。
死んでみたら地獄だったということには
なりたくないですね。
また、霊界にいる人が解怨されると、
地獄から天国、ありとあらゆる世界を見せられるそうですね。
必然的にどこに行きたいか、一目瞭然です。
とにかくも、人がどうとかいうのではなく、
私自身が、本心に忠実な、
正午定着の歩みをしていかなければ、と
改めて感じさせられます。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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