天は父を象徴し、地は母を象徴する
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金元弼(キム ウォンピル)先生の講話。
今日は、「先生のような生活をするために」です。
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私が巡回していたときのことでした。
「どうしたら、先生のような生活ができるのだろうか」
という考えで、胸がいっぱいでした。
韓国で、非常に奥深く高い山を
冬に越えなければならなかったことがありました。
誰も人がいないのに、雪が真っ白く降る中を一人で歩いていました。
その時、天は父を象徴し、地は母を象徴する
という原理のみ言を、ふと思い出しました。
私は今この地を踏んでいるから、
お母様の体を踏んでいるのだと考えました。
そう思うと“痛い”のです。
それで、そおっと歩いたのです。
そしたら本当に体を踏んでいるような気持ちがしてくるのです。
一歩を踏む時に、「私は親のために孝行します、
忠節を尽くします、貞節を守ります」という心持ちです。
白い雪の上に誓いながら行くのです。
雪の上に字を一つ書いて、また書いて、
忠なら忠を、孝なら孝を足で書きながら歩みます。
このことが、私には非常に強く心に残りました。
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韓国には、本当に親孝行な子供がいました。
親がなくなって三年間、毎日のごとく親の霊魂を慰めるために、
墓の所まで行ってお祈りをしたのです。
それで墓まで通った道と祈った場所には、芝生が生えませんでした。
私たちが神に、真の父母にそのように心を尽くして侍らないならば、
「私は親にさえもこんなにしたのに、
あなたたちは真の父母と神が分かっていながら、
なぜできなかったのですか」と問われることになるでしょう。
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先生は神に侍るに当たり、どのようにされたのでしょうか。
世の中には、国のために忠義を尽くした人たちがたくさんいます。
その人たちが「あなたには及びもしません」
という先生になるために、
どういう道を歩まなければならなかったのでしょうか。
神の国を建設するに当たっても、国のために、世界のために尽くした以上に、
神の国のために、神の世界をつくるために
心を尽くさなければならないのが、先生の基準なのです。
もしそうしなければ、イエス様、お釈迦様、マホメット、
いろんな聖人あるいは神のために尽くした王様、
忠節を尽くした親孝行者たちに先生は訴えられるのです。
ですから、国のために尽くした最高の人は誰だろうといつも考えながら、
この国をそれ以上に愛するという条件をお立てになるのです。
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そこで先生が360軒を訪問するに当たって私に教えてくださったことは、
その360軒のために尽くした人々がおり、
先祖たちがいたのだから、その人たち以上の心で、
その区域を愛し真心を尽くしていかなければならないということでした。
例えば、熱心なイスラム教徒がいるとしましょう。
その人以上に神を愛したとするならば、
イスラム教の先祖の霊たちが私を助けてくれるということなのです。
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『お母様の体を踏んでいるのだ』
先日、同じような証しを紹介しましたが(↗)
雪の山道で思われたことだったんですね。。。
金元弼の証しは、孝情の証しです。
孝情の限りを尽くしたとき、
父母の情に出会えるのかもしれません。
お父様に近づきたい、
父母様と一つになりたい、
その純粋な心情を相続したいです。
実の親以上に真の父母様に侍る。
それを、霊界にいる両親や先祖も願っていることでしょう。
地上では真の父母様の価値をわかりませんでしたが、
霊界に行ったら、どれだけ貴いお方なのか、
そのことをはっきりと知ったに違いありません。
神様に侍る基準を
聖人義人たちに照らし合わせて歩まれるお父様。
お母様もまさにそのような基準で歩んでおられます。
季節も春を迎えましたが、
摂理的にも春の絶頂期を迎えています。
自分の本心に負債なき歩みをすること。
悔いなき歩みをしていきたいと思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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