大知(おおとも)先生が書かれた、
「氏族伝道の心理学」より、
今回は、『心の問題、心の病気とは』をお伝えします。
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まず、考えていかなければならないことは、
「心の病」とか「心の問題」というのは
どのような状態をいうのか、ということです。
心の病の定義は、学問的にはとても難しいものです。
米国精神医学界が定めた精神疾患の診断基準には
精神疾患は、大見出しだけで十七章、
さらに細かく分類していくと数百にわたって記されています。
有名な「統合失調症(旧・精神分裂病)」や「大鬱病」なども、
この診断基準の中で定義され、分類されています。
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ところで、このように多岐にわたる心の病ですが、共通していることがあります。
それは何かというと、以下の二つの状態です。
・客観的に物事を見ることができない。
・合理的・合目的的に行動できない。
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例えば、精神病の代名詞として挙げられる統合失調症ですが、
その代表的な症状に「妄想」という状態があります。
これは、実際にはあり得ないことを信じていることです。
例えば、血統妄想と呼ばれるものは、
「私は、実は天皇家の血を引いている」とか
「自分は、ロックフェラーの隠し子だ」などと信じている状態です。
もちろん、実際にはそんなことはありません。
こうした妄想という状態は、
物事を客観的に見ることができていない代表例です。
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あるいは、心の風邪といわれる鬱病では、
「自分なんか、どうせ何をやってもうまくいかない」と思い込んで、
身動きが取れなくなっていることが少なくありません。
実際には、何をやってもうまくいかないということはありませんし、
百点が取れなくても、七十点は取れるかもしれません。
しかし、鬱病にかかると、物事を悲観的にしか
考えることができなくなってしまいます。
これも、物事を客観的に見ることができなくなっている一つの例です。
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また、摂食障害の中で有名な拒食症というのがあります。
この病気にかかると、成人女性で
体重が40キロを切るぐらいやせてしまっていても、
「まだ太っているから、やせなければならない」と思ってしまいます。
この場合も、自分の体型を客観的に見ることができなくなっているのです。
このように、心の病にかかっている時には、
多くの場合、物事を客観的に見ることができなくなっているのです。
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次に、合理的・合目的的に行動できない、
ということについて例を挙げてみます。
強迫性障害という病気があります。
有名なのは、洗浄脅迫という症状です。
この症状は、何か手が汚く思えて、石鹸(せっけん)をつけて
十分でも二十分でも手を洗い続けます。
本人もどこかで意味がないと思ってはいるのです。
でも、やめることができません。
☆
また、先に挙げた摂食障害ですが、
例えばその一つである過食症になると、
食べてはいけないと思っていながらも、食べ続けてしまいます。
そして食べたのちに自己嫌悪に陥り、吐いてしまいます。
このときも、吐いてはいけないと思いながら、吐いてしまうのです。
この場合も、頭ではわかっていても、合理的に行動できないのです。
☆
あるいは、鬱病の場合には、
やらなければならないと思っていても行動できなくなります。
例えば、会社に行かなければならないと思っていても
行けないといった状態です。
以上に例示したように、心の病にかかっている状態というのは、
先に挙げた、「物事が客観的に見ることができなくなる」、
「合理的・合目的的に行動できなくなる」という状態であり、
それが様々な症状として現れている、と考えることができるのです。
☆
逆に言えば、心が健康な状態とは、
客観的に物事を見ることができ、
合理的・合目的的に行動することができる状態です。
自分自身にとって都合が悪い現実、見たくない事実に
きちんと向かい合って客観的に見ることができること。
そして、自分がやりたくない、嫌なことでも、
やらなければならないことは、きちんとやる。
また、やってはいけないことは、
どんな誘惑があってもやらずにいることができる。
こうした状態が、心が健康な状態です。
☆
しかし、私たちにはみな、堕落性があるので、
どうしても自分の都合がいいように解釈しますし、
やらなくてはならないことでも後回しにしてしまいます。
また、やってはいけないことも、ついやってしまいます。
それが大きくなって、社会生活や日常生活に
支障をきたすようになると、
心の問題とか心の病気と呼ばれるようになるのです。
大知 勇治・著
(光言社・刊『成約時代の牧会カウンセリング 氏族伝道の心理学』より)
第1章 不安と怒り
※一部省略しています
文責:ten1ko2
(光言社・刊『成約時代の牧会カウンセリング 氏族伝道の心理学』より)
第1章 不安と怒り
※一部省略しています
文責:ten1ko2
☆
タイトルは「心がうまく動かない!」としましたが、
実際は、心では思っていたとしても
体が動かない、心と体が一つにならないというのが
より正確でしょうか。
み言の通りに歩めない、
愛さなければならない、越えなければならないのに
それがなかなか難しい。。。
堕落性を脱ぐためには、神の立場で愛すること、
つまり「ために生きる」実践だといえるでしょう。
まず動くこと、これが一番いいようです。
人間は、誰にも堕落性があるわけで、
それが心の病の誘因となるというなら、
誰しも、心の問題の種を抱えているのかもしれません。
それが、表に現れる時に、
『精神病』として、診断されるのでしょうか。
心の病の例が挙げられていますが、
こういう病気になる人が、
今までよりも増えているのではないかと感じます。
精神的に負担が大きい社会になり、
同時に、霊的な攻撃もありますので、
どちらにおいても、精神的病にならざるを得ないのかな、
そのようにも思います。
普通に生きることは、当たり前のようで、
その当たり前の生き方が難しい時代。
大知先生も、み言に基いてカウンセリングをされているとのこと。
そのアドバイスをもとに
よい歩みをしていきたいと思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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