大知(おおとも)先生の
「氏族伝道の心理学」、
「不安」と「怒り」の3回目です。
☆
(さて、)「怨み」とは何でしょうか。
また、「恨み」と「怨み」の違いはどこにあるのでしょうか。
日本では一般的に、この二つの「うらみ」を区別なく使っています。
しかし、教会員は、この二つの言葉を区別して使います。
「恨み」は、「恨(ハン)の心情」と言ったりしますが、
「理想や希望が達成されないときの悲しみ、つらさ」を意味します。
そして、「恨みを晴らす」ためには、
達成されていない理想や希望をその本人自身が達成するか、
あるいは本人に代わって、誰かがその理想や希望を達成する必要があります。
神様の心情や真(まこと)の父母様の心情、
韓民族の歴史的な心情は「恨の心情」であると言われます。
真の父母様は、神様の創造理想を完成することによって、
神様の恨を解かれたのです。
☆
それに対して、怨みは、「恨み+怒り」です。
「恨み」は悲しみであるために、
誰かを責めるということはありませんが、
怨みは怒りがあるため、誰かを責めます。
「このうらみ、晴らさでおくべきか〜」というときには、
誰かを不幸にする、呪い殺すということを意味します。
これは、「怨み」の中に破壊衝動である怒りがあるためです。
不安や怒りが、いかに
大きな問題であるかが理解していただけたかと思います。
大知 勇治・著
(光言社・刊『成約時代の牧会カウンセリング 氏族伝道の心理学』より)
第1章 不安と怒り
(光言社・刊『成約時代の牧会カウンセリング 氏族伝道の心理学』より)
第1章 不安と怒り
☆
恨みと怨みというのは、
明確な違いがあることを
私たちはみ言を通して学び、
そして実践しようとしています。
神様が『恨(ハン)の神様』であり、
真の父母様も、神様を解放するために、
恨の心情を持って歩んでこられました。
ということは、何というのか、
喜怒哀楽を持たれる神様には、
「恨み」というのは、本然の思いなのだろうな、
そのように思います。
昔、お世話になったある教会長が、
恨とは、「聖なる憤り」だ、
そんな風に表現していたことを思い出します。
マイナス的なことも
プラスに転換させられるように、
そういう時ほど、神様、真の父母様に、
心を合わせられるようにしたいと思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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