神のために、善なることのために、
家庭を犠牲にすれば、
神がその家庭を守ってくださる
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家庭を犠牲にすれば、
神がその家庭を守ってくださる
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どういう生き方をすると、神様に守られるのでしょうか。
金元弼(キム ウォンピル)先生のみ言、
今日は、草創期の貴重な証しを通して
語ってくださいます。
「すべてを捨てたとき神が守ってくださる」
です。
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最初のころに導かれてきた人たちは、
長く深い信仰生活をしていた人々で、
いろいろな神体験をし、そればかりでなく、
いろいろな霊的役事をしてきた人たちでした。
病気を治したり、過去、現在を透視し、
未来を予言する人などいろいろです。
ですから彼らは、周りの人々から神のごとく侍られていました。
そんな彼らが主の来臨のお告げを受けたのですから、
今まで待ちに待っていたがゆえに、すべてを断ち切って、
いつまでもいつまでも先生から離れようとしなかったということは、
皆さんもよく理解できるでしょう。
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例えば、韓国の土着宗教を信じていた人で、
ある時、亡くなって他界していたその宗教の教祖が現れ、
「これからあなたは、私が導く新しい宗教の道を行きなさい」
と言われて、キリスト者になった人がいました。
彼女は、土着宗教を信じていたときに、
病気を治すなどいろいろの役事をしていたのです。
そしてキリスト教に入信し、
神のみ言は聖書に著わされているということで、
その神のみ言を読みたいのですが、文字が読めませんでした。
ところが神が彼女に現れて、
聖書の内容を一つ一つ導きながら言葉を教えたので、
彼女はそれが読めるようになったのです。
その方がまた導かれて、先生が再臨のメシヤだ
ということが本当に分かるようになったのですから、
すべてを捨てて、先生に侍っていくのが当然だったのです。
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ところが、そういう人たちがいろいろと迫害に遭うようになりました。
それは、キリスト教を指導している指導者たちには、
その神のお告げが理解できなかったからです。
このような人たちは非常に家庭で尊敬され、
教会で神のごとく侍られていた立場だったのですが、
家庭から迫害され、教会から迫害され、
行く所は先生の所しかなくなったのです。
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当時、先生が二十六歳のころでした。
また、とても素晴らしい牧師の家庭がありました。
その牧師の娘さんは結婚していて、
神からお告げを受け、先生に仕えるようになりました。
子供もあり、またご主人は非常に反宗教的で、
共産党の党員でもありました。
そういう中で、先生の所に来るので、
そのご主人は奥さんを愛しているがゆえに、
先生を殺してやると、いつも銃を所持して脅迫していました。
また親からも迫害を受ける、そんな中に神がお告げされるには、
「すべてを捨てて、み言を宣べ伝えなさい」ということだったのです。
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私たちはそういう人たちに、何とアドバイスしてあげればよいでしょうか。
今、私たちは、氏族復帰の恵みの時代を迎えていますので、
家族がそろってこの道を行くことを教えています。
しかし当時は、開拓の時代でした。
その時に、悩んで訪ねてきた食口たちに先生がアドバイスされたことで、
忘れられない一つのみ言があります。
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それは、
「神のために、善なることのために、
私たちが家庭を犠牲にして出て働くならば、
神がその家庭を守ってくださるでしょう」
ということです。
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神は、人間が神のためにあるとき、その人のためにあられる方なのです。
ですから、神のために自分の子供や家庭を犠牲にしたときに、
神はあなたを否定しても、その家庭を、
子供を守ってあげなければならなくなるというのです。
ところが、私たちが自分の子供のことを心配すると、
神は、「私が心配してあげなくても、
彼らが心配して見ているから助ける必要がない」ということになるのです。
そう考えてみますと、人が子供を見るのが安心でしょうか、
神が子供を見、家庭を守ってくださるのが安心でしょうか。
そのような話をされたとき、すぐに私は、
先生がそういう道を歩き、勝利されたので、
そう教えておられるのだと気づきました。
1987年ドイツ
「主流の道における伝統」より
「主流の道における伝統」より
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金元弼先生が語られているように、
神様もご自身の家族を犠牲にして歩まれた先輩たちに、
ただただ感謝していかれ、慰労の思いを込めて、
家族を守っていかれた、とあります。
しかし、真の父母様の家庭が犠牲に充ちていたように、
先輩家庭においても、実際には簡単な道ではなかったといいます。
多くの先輩たちが本当に苦労の道を行きました。
その犠牲の土台の上に、
今の私たちがあることを忘れてはならないと思います。
今は、神氏族メシヤを全面的にしていく時です。
大手を振って、氏族に向かえる時なのです。
家庭に対してもそうです。
神様も待ちに待ったこの時。。。
今は、愛すべき人を愛することができる時です。
果敢に立ち向かっていきたいと思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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