2019年07月25日

神に怒りや不安はあるか?! 神の心情を、心理学的にみると 《大知先生のカウンセリングルーム》



190725-20190721.jpg
2019.7.21 柳寛順体育館☆


大知(おおとも)先生 「氏族伝道の心理学」より
「神様の不安と怒り、真の父母様の歩み」を紹介します。


不安と怒りの背景には孤独があります。
そして、歴史上、一番孤独であられた方が、神様です。

だとすれば、神様に不安と怒りはあったのでしょうか。
もしあったとすれば、それは、どのようなものであったのでしょうか。

(一般的に)神様は全知全能であり、絶対愛のお方であられる、と思っています。
ですから、神様に対するイメージは、
「すべてを見通されて、温和で、人類を愛し、導き、見守ってくださっている方」
というようなものが一般的ではないでしょうか。

私たちは、真のお父様のみ言(ことば)により、
恨の心情をもたれる神様であることを知りました。
人類の姿を見て、悲しまれ、苦しまれている悲惨な神様であることを知ったのです。

しかし、神様の不安や怒りには、
あまり目を向けることがなかったかもしれません。
でも、人の情の構造を見ながら神様のことを考えたとき、
神様の不安と怒りという視点を持たざるを得なくなってくるのです。


では、神様に不安や怒りはあるのでしょうか。

もともと人間の不安は良心の呵責の中にありましたし、
怒りは防御反応などとして、喜怒哀楽の原型は存在していました。
それが、堕落を通して、知情意がきちんと育つことができず、
さらに悪なる環境の中で、心を壊していくようになってしまいました。

神様は、堕落人間のように知情意の各機能に問題を抱えていたとは考えられません。

しかし、子供が堕落して、悲惨な生活をしている姿を見る中で、
あるいは復帰摂理を進めたくても、
人間の責任分担が果たされないために進まない状況の中で、
不安や怒りを抱えていったとしても、おかしくはない状況であったに
違いないと、私は考えます。

ただ、神様と私たちが違うところは、そうした不安と怒りの中にあっても、
真の愛をもって越えてこられたことでしょう。

つまり、即時に救い(復帰)のプログラムに着手され、
完全に破壊し去ることはなされなかったのです。
そして、長い歴史をかけて、私たち人類の救済の摂理を進め、
今日の勝利を迎えられました。


様々な感情を抑えて越えてこられることが、
どれほどの苦しみだったことでしょうか。

私は、これまで、精神疾患を患った人やその家族の方々と面談をしてきました。
本人も、その家族も、その苦しみは本当に大変なものです。

神様も、子供たちの苦しむ姿を見て、どれほど心を痛められたでしょうか。
また、子供たちである人類の言動が、
どれほど神様を傷つけてきたことでしょうか。

しかし、愛の神であるがゆえに、心の中にある思いを
誰にもぶつけることができずにきた神様だったのでしょう。


ところで、『聖書』の中に「神の怒り」「主の怒り」という言葉は、
どれくらい出てくるのでしょうか。

パソコンで検索してみたところ、
日本語の旧約・新約全体(口語訳)で、四十以上あります。
一方、さすがに「神の不安」という言葉は、一箇所もありません。
皆さんは、こうした検索結果をどのように感じたでしょうか。

ただ、不安や怒りという言葉をはっきりと使っていなくても、
『聖書』を読んでいくと、特に旧約『聖書』を読んでいくと、
神様の心情の揺れや怒りを感じさせられる箇所が少なくないのです。

(一部編集・抜粋 文責:ten1ko2)

大知 勇治・著
(光言社・刊『成約時代の牧会カウンセリング 氏族伝道の心理学』より)
第2章 心の問題と復帰歴史
「神様の不安と怒り、真の父母様の歩み」より


旧約の時代、神様と人間はどちらかというと、
主人と僕のような関係でした。
というか、お父様は、

「神様は僕を立てて、私がお前の父だと教えてやりました。
僕を遣わし、天使を遣わして教えてあげました」

「アブラハムに現れた主なる神も天使の姿で現れました」

そのように語られているように、
実際には、神様は、天使を通して、
働かれていた、というわけです。

そういう意味で、
旧約聖書には、「怒りの神」というイメージがありますが、
神様御自身ではなかったのでしょう。

それにしても、「神様の不安」
なんて、考えたことがなかったですね。

もう少し、読み進めていきたいと思います。





にほんブログ村
良い記事だと思った方は、
応援のクリックをお願いします!

(なお、記事冒頭の家庭連合のバナーも
ブログ村のバナーとなっています
どちらからでも応援して頂けます)


※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。

さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)


posted by ten1ko2 at 10:48 | Comment(2) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年07月24日

「うらめしや」 恨霊たちの復讐はいつ、どこで?! 《浅川先生霊界シリーズ》 



190724-201905.jpg


浅川先生の霊界シリーズ。
今回から「怨みの霊と人間の幸・不幸」
初回は、『怨みの霊と復讐(ふくしゅう)』です。


私たちは幸せを求めて必死に生きていますが、
現実は多くの不幸に見舞われています。

病気の苦しみ、心の苦しみ、また家庭にあっては
親子、夫婦の苦しみなどを背負って生きています。

それでは、なぜ人間は幸せを求めながら不幸になってしまうのでしょうか。

不幸の原因は様々あります。
本人の言動の結果、自業自得で不幸になる場合もあります。
先祖があまりにもつらく苦しい霊界にいるため、
救いを求めて子孫に苦しみを与える場合もあります。

ところで、より大きな不幸の原因として、
強い怨みの霊の働きがあるのです。

人から怨みを買えば、幸せにはなれません。
私と私の家系に対して、
「絶対に幸せにさせない、不幸のどん底に落としてやる」
という強い怨みをもった霊の働きによって、
人生は翻弄(ほんろう)されていると言っても過言ではありません。

ではその怨みの霊はいったいだれがつくったのでしょうか。
実は怨みの霊は先祖がつくったのです。

先祖が罪業を犯したということは、
怨みの霊をつくったということになるのです。
ある先祖が無慈悲に人を殺害したならば、
殺された人は強い怨みをもって、その先祖に復讐を誓うでしょう。

では怨みの霊は、どのように先祖に働きかけるのでしょうか。

例えば、ある先祖が、自分の犯した罪を目撃した人を殺害しようとします。
最初はたくさんお酒を飲ませて、
憐憫(れんびん)の情をもって、その人をもてなしているように見せかけ、
酒に酔って理性を失ったところを見計らって、
野原に連れ出し、闇夜(やみよ)に紛れてこの人を刺し殺したとします。

殺された人は先祖に激しい怨みをもったまま、
霊人体と肉体が分離してしまったのです。

普通、霊は、肉体から離れたならば、霊界に行くようになっています。
霊人体は霊界で住み、肉体のある人は地上に住むというのが原則ですが、
非常に強い怨みをもって肉体から分離された場合は、
霊界に行かないことがあるのです。

この場合、怨みの霊は、殺害した人の体に入っていくのです。
殺害した人に復讐するために、
その人の体に侵入するのです。

先ほどの例で言うなら、殺害者は目撃者を刺し殺したので安心していても、
殺された人の霊は、殺した人の体の中に入っていったのです。

なぜ殺された人間の霊は、殺した人の体に入ることができるのでしょうか。
霊は肉体を貫通することができ、小さくなることができるのです。

そのために、胃腸、細胞、血液、脳細胞などの
人体に入り込むことができるのです。
苦痛を与えられた箇所に苦痛を与えるために、
殺害したその人間の体の中に居座るようになります。

そして内側から復讐を謀り、苦痛を与えていくのです。

浅川 勇男・著
(光言社・刊『幸・不幸と霊界の仕組み』より)
第六章 怨みの霊と人間の幸・不幸



怨みの霊は、恨む人の体に入る。。。
何と、恐ろしいことでしょうか。
このことは、浅川先生が指摘していますが、
実は、清平で話されているみ言と全く同じです。

さらにいうならば、恨まれた人が死んだ場合には、どうなるのか。。。
霊人というのは、すでに死んでいるわけですから、
霊界に行って、無くなるのではありません。
すなわち、後孫の体に入り、代々、未来永劫
復讐し続けるというのです。

私たちは、霊界が全く見えないので、
何もわかりませんけれど、
かつて、清平40日修練会の第一回目に参加した、
ある教会長が言っていました。

熱心に役事、祈祷を捧げている時に
霊眼が開けた。
そうしたら、自分の体に、
カエルの卵のように、つぶつぶの悪霊が
無数に体に入っていた。。。

このような体験をされたそうです。

人に悪いことをしても、
誰にも見つからなかったら、裁かれることもない。。。
そのような考えは、大間違いだということですね。
復讐というのは、本当に恐ろしい、と思うのです。





にほんブログ村
良い記事だと思った方は、
応援のクリックをお願いします!

(なお、記事冒頭の家庭連合のバナーも
ブログ村のバナーとなっています
どちらからでも応援して頂けます)


※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。

さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)


posted by ten1ko2 at 08:57 | Comment(0) | 霊界 霊人と共に歩む生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年07月23日

救いは、誰に必要なのか?! 真の父母は医師であり、消防士  



190723-42moon_web_19760918.jpg


週刊Blessed Lifeのコラム
「誰が救いを必要とするのか」
を紹介します。


2000年前、イエスが語った印象的な言葉が
新約聖書のマタイによる福音書に記されています。

「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である」
(マタイによる福音書 第9章12節)という言葉です。

この言葉の意味は何でしょうか。
健康な人には医者は要らない、医者を必要とするのは病人であるということですから、
あまりにも当然のことを語っているに過ぎないと思ったら大間違いです。

この言葉の後に続く言葉があります。
「わたしがきたのは、義人(丈夫な人)を招くためではなく、
罪人(病人)を招くためである」(同 13節)というのです。

はたして、イエスは罪人(つみびと)だけを相手にして
救いを与えるというのでしょうか。

罪人以外の義人の救いは、
「あなたは丈夫な人だから、医者である私(イエス)を必要としません」と言って、
イエスは丈夫な人(義人)の救いを放棄するというのでしょうか。
これは深く考えてみなければならない言葉です。

根本的なことを言えば、堕落したアダムとエバの
末裔(まつえい)である人類は、皆罪人であり、義人は一人もいません。

イエスの時代には、取税人(税を取り立てる人)や
娼婦、安息日などの律法を守れない人、
ユダヤ人以外の偶像崇拝者である異邦人などが「罪人」でしたから、
イエスはそういう人々に寄り添うという宣言が、
「医者を必要とするのは病人である」という言葉の意味になります。

しかし、もう少し掘り下げると、神に選ばれた者という
「選民意識(義人意識、丈夫な人)」がとても強かった
当時のユダヤ人たちの傲慢な考えをたしなめられた言葉が、
「丈夫な人には医者はいらない」であり、その本当の意味は、
そのようなユダヤ人たちの傲慢さは神の国には程遠く、
むしろサタンに属する者であり、傲慢なままでは
永遠の滅びにつながってしまうだろうとイエスは語っていたのです。

現代の国際情勢はまさに「わが国は丈夫な人」で医者は要らない、
「相手の国は病人」だから医者はそっちへ行ってくれと言っているようであり、
結局、謙虚に神の救いを受けるのがアフリカであったり、
サタンに属して永遠の滅びに落ちるのが先進国であったりする可能性があります。

そうならないように祈りますが、政治経済を主導するトップリーダーたちが
かつてのユダヤ人たちのように傲慢な考えにとりつかれて、
他者や弱者への哀れみ、思いやりが欠如してしまうと、
救いの恵みからこぼれ落ちてしまうかもしれません。

コラム・週刊Blessed Life 76
誰が救いを必要とするのか
新海 一朗(コラムニスト)



前線で歩んでいると、神様を否定する人に出会います。
よく言われるのが、「神様なんてどこにいるんだ、見せてみろ」

また、こんなことを言われることもあります。
「神様を信じるなんて、弱い人のすることだ」

実は私自身も教会に来る前には、
そのようなことを思っていました。
しかし、み言に出会い、また、お父様に出会い、
神様を信じ、そして、実感するようになりました。

はっきり言わせていただくなら、逆ですよね。
強くなければ、この道を歩むことなど、
到底できないな、そのように思います。

さらには、どんな迫害も試練も乗り越えてこられた
真の父母様がおられるからこそ、
私たちもそれを相続し、乗り越えることができるのだ、
そう断言することができます。

本当に素晴らしいことだと思います。
神様、真の父母様とともにある生活、
これ以上の喜びはありません。

このことを多くの人たちに伝えるのが、
私自身の使命であることを改めて思うのです。




にほんブログ村
良い記事だと思った方は、
応援のクリックをお願いします!

(なお、記事冒頭の家庭連合のバナーも
ブログ村のバナーとなっています
どちらからでも応援して頂けます)



※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。

さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)

posted by ten1ko2 at 08:52 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする