大知(おおとも)先生 「氏族伝道の心理学」より
「神様の不安と怒り、真の父母様の歩み」を紹介します。
☆
不安と怒りの背景には孤独があります。
そして、歴史上、一番孤独であられた方が、神様です。
だとすれば、神様に不安と怒りはあったのでしょうか。
もしあったとすれば、それは、どのようなものであったのでしょうか。
(一般的に)神様は全知全能であり、絶対愛のお方であられる、と思っています。
ですから、神様に対するイメージは、
「すべてを見通されて、温和で、人類を愛し、導き、見守ってくださっている方」
というようなものが一般的ではないでしょうか。
私たちは、真のお父様のみ言(ことば)により、
恨の心情をもたれる神様であることを知りました。
人類の姿を見て、悲しまれ、苦しまれている悲惨な神様であることを知ったのです。
しかし、神様の不安や怒りには、
あまり目を向けることがなかったかもしれません。
でも、人の情の構造を見ながら神様のことを考えたとき、
神様の不安と怒りという視点を持たざるを得なくなってくるのです。
☆
では、神様に不安や怒りはあるのでしょうか。
もともと人間の不安は良心の呵責の中にありましたし、
怒りは防御反応などとして、喜怒哀楽の原型は存在していました。
それが、堕落を通して、知情意がきちんと育つことができず、
さらに悪なる環境の中で、心を壊していくようになってしまいました。
神様は、堕落人間のように知情意の各機能に問題を抱えていたとは考えられません。
しかし、子供が堕落して、悲惨な生活をしている姿を見る中で、
あるいは復帰摂理を進めたくても、
人間の責任分担が果たされないために進まない状況の中で、
不安や怒りを抱えていったとしても、おかしくはない状況であったに
違いないと、私は考えます。
ただ、神様と私たちが違うところは、そうした不安と怒りの中にあっても、
真の愛をもって越えてこられたことでしょう。
つまり、即時に救い(復帰)のプログラムに着手され、
完全に破壊し去ることはなされなかったのです。
そして、長い歴史をかけて、私たち人類の救済の摂理を進め、
今日の勝利を迎えられました。
☆
様々な感情を抑えて越えてこられることが、
どれほどの苦しみだったことでしょうか。
私は、これまで、精神疾患を患った人やその家族の方々と面談をしてきました。
本人も、その家族も、その苦しみは本当に大変なものです。
神様も、子供たちの苦しむ姿を見て、どれほど心を痛められたでしょうか。
また、子供たちである人類の言動が、
どれほど神様を傷つけてきたことでしょうか。
しかし、愛の神であるがゆえに、心の中にある思いを
誰にもぶつけることができずにきた神様だったのでしょう。
☆
ところで、『聖書』の中に「神の怒り」「主の怒り」という言葉は、
どれくらい出てくるのでしょうか。
パソコンで検索してみたところ、
日本語の旧約・新約全体(口語訳)で、四十以上あります。
一方、さすがに「神の不安」という言葉は、一箇所もありません。
皆さんは、こうした検索結果をどのように感じたでしょうか。
ただ、不安や怒りという言葉をはっきりと使っていなくても、
『聖書』を読んでいくと、特に旧約『聖書』を読んでいくと、
神様の心情の揺れや怒りを感じさせられる箇所が少なくないのです。
(一部編集・抜粋 文責:ten1ko2)
大知 勇治・著
(光言社・刊『成約時代の牧会カウンセリング 氏族伝道の心理学』より)
第2章 心の問題と復帰歴史
「神様の不安と怒り、真の父母様の歩み」より
大知 勇治・著
(光言社・刊『成約時代の牧会カウンセリング 氏族伝道の心理学』より)
第2章 心の問題と復帰歴史
「神様の不安と怒り、真の父母様の歩み」より
☆
旧約の時代、神様と人間はどちらかというと、
主人と僕のような関係でした。
というか、お父様は、
「神様は僕を立てて、私がお前の父だと教えてやりました。
僕を遣わし、天使を遣わして教えてあげました」
「アブラハムに現れた主なる神も天使の姿で現れました」
そのように語られているように、
実際には、神様は、天使を通して、
働かれていた、というわけです。
そういう意味で、
旧約聖書には、「怒りの神」というイメージがありますが、
神様御自身ではなかったのでしょう。
それにしても、「神様の不安」
なんて、考えたことがなかったですね。
もう少し、読み進めていきたいと思います。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
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(善なる目的で使用することに関しては
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