2019年07月07日

あえて苦痛を選ぶ?! 犠牲の道が素晴らしい理由 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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李ヨハネ先生の説教、
「苦痛の価値性」の続編を紹介します。



苦痛のあるところを進んで求めよう
 
さて、このように苦痛の包みの中には
神の贈り物が秘められていると考えれば、
今日私たちは苦痛を求めていかなければならないのです。

苦痛の包みがどこに落ちたか探して、
人が嫌がる苦痛の包みを私が持とうという心、
これが復帰路程を真に探していく歩みです。

悲しんでいる家を訪ね、貧しい家を訪ね、
不治の病で患っている患者の家を訪ねていかなければなりません。
そしてそこで父の事情を見つけなければなりません。

苦痛の中に神の事情があるのではないですか。
苦痛の中に神の愛が入っているのではないですか。
それは間違いない事実です。

私たちが先生の事情を思うなら、先生の十字架を共に背負い、
先生の願いに共に責任を持つ、すなわち先生の
苦痛の包みを共にほどく同伴者になろうというのです。

皆さん各自に困難があるたびに、
先生が持っている事情を私に伝えてくださるのだと
認めることができなければなりません。

苦痛を勝利したことのある人は、本当に共感することでしょう。
歴史的な信仰者たちが、りっぱな功労者であったのを認めることになるのです。

さあ、このように苦痛を扱うなら不平や恨みがありますか。
かんしゃくを起こしますか。
苦痛の包みの価値を知ってみると、嫌だと言うことができず、
苦痛を願わざるをえなくなるのです。

今や私たちは、苦痛によって父と愛の因縁を結びました。
まだまだ苦痛の道を行かなければならない私たちです。

自分のために行かなければならず、
自分の氏族のために行かなければならず、
自分の民族のために行かなければならない
苦痛の道が残っているということを知っています。

それで苦痛を扱う方法として、第一に苦痛の貴さを知り、
第二には神の啓示であることを知ろうということを述べました。

そうはいっても、神の苦痛を
すぐに引き受けることができるでしょうか。

主がどのようなかたなのか分かっても、
実生活で苦痛を正しく受けてその価値を探しえないかぎり、
主の苦痛とはつながりえません。

苦痛の背後には何があると言いましたか。
喜びがあるのです。
苦いものの背後には甘いものがあります。
あまりにも苦ければ甘くなります。
苦さが過ぎれば甘いのです。

このように甘いものと苦いものがお互い通じるように、
苦痛の背後には愛が隠れています。
言うに言えない喜びが隠れています。

それゆえ今日の信仰者は、
苦労しながらも喜ぶことができるのです。
本当に正しく苦労すれば、
感謝する心、誇らしい心、うれしい心が出てきます。

苦労を通して得た愛は、
末永く輝く伝統的価値として残されてきたのです。

1977年7月24日(日)中央修練所
聖日の礼拝
「苦痛の価値性 」


統一教会時代は苦難の歴史でした。
家庭連合になり、特に天一国時代を迎えてからは、
希望の時代、建設の時代になりました。

しかし、個人において、家庭においては、
まだ苦難の中にいるかも知れません。
神様にしかわからない、苦難を抱えている
そのような状況に立たされているかも知れません。

それでもその苦痛、苦難は、
神様との出会いがある、というのです。
真の父母様との出会いがあります。

それがみ旨にいることの素晴らしさなのだろう、
そのように思わされるのです。




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posted by ten1ko2 at 09:01 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする