苦痛を越えていくと、
感謝の心、嬉しい心がわいてくるといいます。
そして──
李ヨハネ(イ ヨハン)先生の説教
「苦痛の価値性」より『見せてあげる教会』です。
☆
今やこれらのことを知って、
人に見せてあげる教会になるようにしなければなりません。
神が共にいてくださる教会にならなければなりません。
この地上に教会はたくさんあります。
統一教会も多いですが、神と関係のない教会になることもありえます。
原理はあるけれど、神霊がないということです。
それはどういうことかというと、
聖霊とは関係のない教会だということです。
統一教会という看板はついているけれど、
実情は統一教会でないこともあるということです。
だれでも基台をなせばお互いに連結でき、心と心が通じ、
願いが一致できてこそ統一教会といえます。
聖霊が降りてきて、多くの人が来て復活する希望の場所、悔い改めの場所になり、
どんな人が入ってきても打ち解けることのできる教会として、
神の前に、人間の前に現れうる教会にならなければならないのに、
今まではそうできていません。
これからそれを共になそうというのです。
ですから私たちの教会は神の前に、そして万民の前に
現して見せることのできる教会になりましょう。
これを忘れてはなりません。
☆
それではどのようにすればよいのでしょうか。
私たち一人一人がいなければ現れることができません。
お互いの間に現れなければなりません。
家族なら家族として、教会の食口なら食口どうし、
記憶される人、お互い慕い合うことのできる人にならなければなりません。
会わないでいれば会いたく、お互い相手を誇りたく思う人、
これを見せてあげようというのです。
私たちがお互いに見てよければ、
人にもよく見え、天にも伝わります。
今日これが実現されていなければ、統一教会の信仰も無駄です。
この世の教会と全く同じです。
み言だけ聞きに行ったり来たりするなら、何が違いますか。
私たちはみ言だけ聞きに来る人たちになってはいけません。
会いたくて来る人にならなければなりません。
食口が慕わしくて来るのです。
一人でも来なければどうして来なかったのかと気になり、
だれか一人でも見えなければ、
だれがいないかを見つけ出せなければなりません。
これから聖日の朝には、家を出るとき礼拝を受けに行くという
過去の観念を捨てて、慕わしい人に会いに行くと思いなさい。
これからこの場は、私だちという人が集まる場ではなく、
神が臨在することのできる祭物が集まった場だと思わなければなりません。
ここは金なにがし、朴なにがしが集まったところではなく、
神の運勢が降りてくることのできる、
祭物が集まった場であり、み旨を中心とした集まりであるよう、
お互いに努力してみましょう。
私たちはお互いに会いたくて、誇りたくて来る人にならなければなりません。
父の家での生活を誇ることができてこそ、
父の事情を知る者になり、
父の事情の中の悲しみを通して喜びを見つけることができます。
礼拝を受けに来たり来なかったりしてはいけません。
縦的心情を心に持ち続けなければなりません。
それができなければ、祭物の資格を失うようになります。
1977年7月24日(日)中央修練所
聖日の礼拝
苦痛の価値性
聖日の礼拝
苦痛の価値性
☆
ヨハネ先生は、天一国時代を迎え、
今、天が願われている教会を目指していますが、
そのことを予見するようなみ言を
すでに40年以上前に語られていました。
以前の記事にも書いたことがあると思いますが、
お父様のみ言の中に
統一教会の教団は氏族です。
「私」の血が共に動くのです。
私が涙すれば、氏族が涙しなければならず、
私が喜べば、氏族が喜ばなければなりません。
それは血族です。
五色人種を越え、文化背景の異なる
すべての国家基準を越え、
壁を取り払って一つのまとまった、
新しい天の国創建のための民族です。
(天聖経 968ページ)
お父様は『血族』である、と語られています。
これは、私自身も含めて、
食口一人一人が問われる内容だと思います。
足りない私たちに対して、
お父様がそう思ってくださっているのですから、
お父様に感謝しつつ、
私たちもそういう心情圏に入っていきたいと思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)