浅川先生の霊界シリーズ。
今回は、「善い先祖の協助を受ける三つの感謝の心」です。
☆
それでは(章の)最後に、善い先祖の協力をたくさん得るとともに、
悪い先祖の働きも良いほうに転換させる、
「災いを転じて福となす」、三つの感謝の心について述べてみます。
最初の感謝の心は、「小さな恵みに感謝する」ということです。
先祖から受けたどんなささいな恵みも忘れずに感謝し続けるということです。
感謝の足りない人は、良いことがあったにもかかわらず、
それを忘れてしまうことが多いのです。
よほど大きな恵みがなければ感謝しない人もいます。
ささいな恵みを感謝し、ずっと自分の胸に秘めて忘れない心が、
善い先祖の協助を受ける要素となるのです。
☆
二番目の感謝の心は、「当たり前の生活に感謝する」ということです。
大きな事故があっても、かすり傷一つなければ、先祖に感謝することでしょう。
幼稚園に通っている自分の子供が乗ったバスが交通事故を起こしたとします。
そのとき自分の子供が全く無傷だったとしたら、
きっと先祖に感謝をするに違いありません。
またご主人が交通事故に遭って、車は大破してめちゃくちゃになったのに、
かすり傷一つなかったとすれば、心から先祖に感謝することでしょう。
しかし、ご主人が当たり前のように、夕方八時に帰ってきて、
それに心から感謝をする奥さんは少ないのです。
また子供が当たり前のように「ただいま」と言って夕方帰ってきたとき、
手を合わせて先祖に感謝をするお母さんは少ないはずです。
当たり前の生活が続きすぎれば感謝の心が薄れてきます。
先祖が守ってくださったということは、事故がなかった、
当たり前の生活ができたということです。
朝、食事をし、「行ってきます」、「行ってらっしゃい」と言い、
「ただいま」、「お帰りなさい」と言って夕食を迎えるという、
当たり前の生活こそ、
事故、災難から守ってくださった先祖の涙ぐましい必死の努力の結果なのです。
そのことに対して心から感謝をすべきです。
当たり前の生活に感謝をしてこそ、
多くの先祖が喜んで、さらに協助するでしょう。
先祖は人間です。情があり、心があります。
ですから子孫が感謝をすれば、ますます協力してあげたくなるのです。
☆
三番目の感謝の心は、「不幸に感謝する」ということです。
「病気にしていただいてありがとう」、
「事故に遭わせていただいてありがとう」、
「苦労させていただいてありがとう」、
こんなことは普通言えないわけですが、
先祖の悪行を私が請け負うことによって先祖と子孫の幸せの道が開かれるのですから、
不幸なことに対しても感謝するのです。
小さな恵みを大きく感謝して忘れない、当たり前の生活に心から感謝する、
不幸にさえ合掌し感謝する心、この三つの感謝をもちながら、
人の幸せのために尽力するとき先祖の大きな協助があるのです。
浅川 勇男・著
(光言社・刊『幸・不幸と霊界の仕組み』より)
第五章 先祖の働きと人間の幸・不幸
善い先祖の協助を受ける三つの感謝の心
(光言社・刊『幸・不幸と霊界の仕組み』より)
第五章 先祖の働きと人間の幸・不幸
善い先祖の協助を受ける三つの感謝の心
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三つの感謝の心、
というよりは、三段階の心、
と表現してもいいかもしれないですね。
恵みに感謝する、
当たり前のことに感謝する、
不幸に感謝する、
感謝の次元がどんどん高まっています。
特に三番目、「不幸に感謝する」というのは、
相当、次元が高い感謝ですよね。
イエス様が歩まれた道、
そして、真の父母様が歩まれた道であり、
私たちも相続する立場だと思います。
また、二番目の「当たり前のことに感謝する」
このことも肝に銘じておきたい教訓です。
どんなときにも感謝の心を持つ、
お母様のみ言を思い出しました。
いかにして昨日より今日、さらに
感謝の気持ちをもって生きていくかということです。
昨日より今日、さらに感謝し、
明日は今日よりもっと感謝しながら
生きるために努力してきました。
お母様を目指して、実践していきたいです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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