浅川先生の霊界シリーズ。
今回から「怨みの霊と人間の幸・不幸」
初回は、『怨みの霊と復讐(ふくしゅう)』です。
☆
私たちは幸せを求めて必死に生きていますが、
現実は多くの不幸に見舞われています。
病気の苦しみ、心の苦しみ、また家庭にあっては
親子、夫婦の苦しみなどを背負って生きています。
それでは、なぜ人間は幸せを求めながら不幸になってしまうのでしょうか。
不幸の原因は様々あります。
本人の言動の結果、自業自得で不幸になる場合もあります。
先祖があまりにもつらく苦しい霊界にいるため、
救いを求めて子孫に苦しみを与える場合もあります。
ところで、より大きな不幸の原因として、
強い怨みの霊の働きがあるのです。
人から怨みを買えば、幸せにはなれません。
私と私の家系に対して、
「絶対に幸せにさせない、不幸のどん底に落としてやる」
という強い怨みをもった霊の働きによって、
人生は翻弄(ほんろう)されていると言っても過言ではありません。
☆
ではその怨みの霊はいったいだれがつくったのでしょうか。実は怨みの霊は先祖がつくったのです。
先祖が罪業を犯したということは、
怨みの霊をつくったということになるのです。
ある先祖が無慈悲に人を殺害したならば、
殺された人は強い怨みをもって、その先祖に復讐を誓うでしょう。
では怨みの霊は、どのように先祖に働きかけるのでしょうか。
例えば、ある先祖が、自分の犯した罪を目撃した人を殺害しようとします。
最初はたくさんお酒を飲ませて、
憐憫(れんびん)の情をもって、その人をもてなしているように見せかけ、
酒に酔って理性を失ったところを見計らって、
野原に連れ出し、闇夜(やみよ)に紛れてこの人を刺し殺したとします。
殺された人は先祖に激しい怨みをもったまま、
霊人体と肉体が分離してしまったのです。
普通、霊は、肉体から離れたならば、霊界に行くようになっています。
霊人体は霊界で住み、肉体のある人は地上に住むというのが原則ですが、
非常に強い怨みをもって肉体から分離された場合は、
霊界に行かないことがあるのです。
この場合、怨みの霊は、殺害した人の体に入っていくのです。
殺害した人に復讐するために、
その人の体に侵入するのです。
先ほどの例で言うなら、殺害者は目撃者を刺し殺したので安心していても、
殺された人の霊は、殺した人の体の中に入っていったのです。
なぜ殺された人間の霊は、殺した人の体に入ることができるのでしょうか。
霊は肉体を貫通することができ、小さくなることができるのです。
そのために、胃腸、細胞、血液、脳細胞などの
人体に入り込むことができるのです。
苦痛を与えられた箇所に苦痛を与えるために、
殺害したその人間の体の中に居座るようになります。
そして内側から復讐を謀り、苦痛を与えていくのです。
浅川 勇男・著
(光言社・刊『幸・不幸と霊界の仕組み』より)
第六章 怨みの霊と人間の幸・不幸
(光言社・刊『幸・不幸と霊界の仕組み』より)
第六章 怨みの霊と人間の幸・不幸
☆
怨みの霊は、恨む人の体に入る。。。
何と、恐ろしいことでしょうか。
このことは、浅川先生が指摘していますが、
実は、清平で話されているみ言と全く同じです。
さらにいうならば、恨まれた人が死んだ場合には、どうなるのか。。。
霊人というのは、すでに死んでいるわけですから、
霊界に行って、無くなるのではありません。
すなわち、後孫の体に入り、代々、未来永劫
復讐し続けるというのです。
私たちは、霊界が全く見えないので、
何もわかりませんけれど、
かつて、清平40日修練会の第一回目に参加した、
ある教会長が言っていました。
熱心に役事、祈祷を捧げている時に
霊眼が開けた。
そうしたら、自分の体に、
カエルの卵のように、つぶつぶの悪霊が
無数に体に入っていた。。。
このような体験をされたそうです。
人に悪いことをしても、
誰にも見つからなかったら、裁かれることもない。。。
そのような考えは、大間違いだということですね。
復讐というのは、本当に恐ろしい、と思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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