世界で起こるすべてのことは
私の問題だと思いなさい
真のお父様
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私の問題だと思いなさい
真のお父様
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本部の蝶野(ちょうの)家庭教育部長の講座。
大好評の3回目、
今日は夫婦というより親子のお話です。
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こうやって私たちは、信仰の原点に帰っていかなければ
神様に使われる私にならないと(いうことを)、だんだん気づいて来ます。
しかし自分でわからなかったので、子供に悩みを抱えることを通して
悟ってでも、やっていかなければならないのです。
アダムとエバも自分たちの罪を責任転嫁して終わった。
だからそれがカインに出て来た。
それで父母が悔い改めていれば、アベルの殺害はなかったでしょう。
しかし、エバは、カインが血気にはやって殺そうとしているとに気づいていたが、
結局、自分の罪がそのように出ていると見ていなかったんです。
エバは(堕落した時)殺そうという動機はなかったので、
(カインの血気や殺意は)自分と似ていない性質だと思った。
自分の罪ではないと思った。
「私はそのように育てた覚えはない」と。
(でもそれは、)いや、あなたの子どもでしょ、ということなのです。
そのときにエバが、『自分がやったことがない罪なんだけど、
自分がこの子を担当したということは、私の責任だ、
どういう責任なんだろう。
あ、自分は神の前に善良でなかった』と、自分の責任として
悔い改める心があったら、
カインの殺そうとする血気の前後の間に入って、
悔い改めをもってとどめることができたはずなんですよ。
ところがやっぱり、エバはどうでした?
責任転嫁した。
アダムのせいにした。
エバは(堕落を)天使長のせいにした。
ですから子供の罪を見た時、逃げたくなるんですよ。
なんで?自分が逃げたからです。
結局自分が担当したものを逃げた場合には、どこかで抱えるようになります。
清算のチャンスが来る。
2代めでチャンスが来ていたが、エバはそれからも逃げた。
ということでカインアベルの問題が起こった。
これが人類の一番ご先祖様の家庭の話なので、
私たちは共通にこれを持っているんです。
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近所のおばさんが万引きするのを見たら、あの人、変だと思うかもしれませんが、
実は万引きが自分には、関係あるから見ているのです。
このようにして
「世界で起こるすべてのことは私の問題だと思いなさい」
とお父様が久保木会長に言われたみ言を皆さんご存知だと思います。
やはり、私の責任だと感ずる人から愛が始まるようになっている。
滋賀の方で事故があったでしょ、幼児に突っ込んで。
ドライバーを責める声があるかもしれませんが、ドライバーだって
好き好んで行ったわけではなく、行ったところが電柱ではなく、
子供たちがいたというのでこんな問題になっています。
ニュースを見るとき、私と関係があるから見ているんですよ、皆さん。
誰の責任か。私の責任だから見ているのです。
真の父母様は、そのようにして世界に起こるすべてのものを見ていかれたので、
愛で昇華し蕩減されていかれました。
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ましてや自分の家庭に起こることを、他人事のように見てしまったり、
あるいは夫婦間が一致するにおいて、
相手の性質ゆえに(配偶者が悪いから)それができないのだ
と主張する時には、完全に天使長の霊界になります。
これは原理を知った人の感性ではない。
じゃあ自分がどのようにしていったらいいんだろうと、涙が出る時にはOK。
自分の配偶者が原理的でないと裁く。。。
完全にサタン(の立場)になっている。
原理はそのようなことを教えていない、
自分にだけ適用する、それで終わりなんです。
相手が原理を聞いていようがいまいが関係はないのです。
もしこの原理観一つあるとするならば、実はこういう夫婦講座もいらないんですね。
男女の違いを学ぶ必要もありません。
だって相手から感じるものは、自分の愛の不足が出てくると見て、
心から愛するからね、原理で一つになってしまうんですよね。
しかし、その原理がわからなくなってしまった。
それでいろんなものが必要になってしまったという
こういう天の悲しみが実はあるのです。
(文責:ten1ko2)
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このみ言をとおして
森山先生の証しを思い出しました。
森山先生が子供のころ、
どうしても紙芝居が見たくて、
黙って、継母のお金を盗んでいた。
そのことを継母は知っていた。
ある日、仏壇の前で、
「操ちゃんが悪いんじゃない、
お金を盗む、この手が悪いんだ」
そういって、継母が自分の手を
泣きながら殴っている、
その姿を森山先生が見た時、
初めて「お母さん、ごめんなさい」
と言うことができた。。。
やはり、森山先生の
継母の姿を見習うべき私たちだろうと思います。
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そして、ここでは、語られてはいませんが、
「私の責任」ということに関して補足します。
皆様もわかっているとは思いますが、
講師が語られているのは、実質的、法的責任を取るということでなく、
心情的、内的なものである、ということだと思います。
自分の周りで起こっていることに対して、
客観的に、ワイドショー的に見つめるのではなく、
すべてこれを見つめる天の父母様の心情を思い、
私の心の悔い改めをしていく、
そのような捉え方をしていく、ということでしょう。
それが、イエス様の道であり、
真の父母様の道です。
アダムとエバは、カインの問題に対して、
そのように捉えられなかったわけです。
真の愛で愛せない、
神の立場で愛せないのが堕落性であり、
確かに無責任な立場だなぁと思います。
でもこれは、アダム、エバだけではなく、
誰もがもつものです。
子どもの罪を自分の心の問題である、
そのように捉えることができずに、
子どもを裁き、さらには、配偶者を裁いていく。。。
そのような思いに対して、まず悔い改めることが、
真の父母様の道に通じるのだと思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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