2019年08月14日

神様にも不安や怒りはあったのか?! 聖書とみ言の観点から 《大知先生のカウンセリングルーム》



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大知(おおとも)先生 「氏族伝道の心理学」より
続編になります。


(これまでに)孤独は不安と怒りにつながると述べました。
では、神様はどうだったのでしょうか。

神様と人間は親子なので、同じ情の構造をもっているはずです。
ということは、神様も、孤独の中にあって、
孤独は不安と怒りに変わったのではないでしょうか。


それを一番読み取れるのは、モーセ路程でしょう。

出エジプトからカナンの地にたどり着くまでの荒野四十年路程の間に、
イスラエルの民の不信仰ゆえに、モーセに対して、
神様は「イスラエル民族を滅ぼす」、とおっしゃったことが何回かありました。

以下に、そのうちの一箇所(出エジプト記第三十二章九節〜十四節)を挙げておきます。

 主はまたモーセに言われた、「わたしはこの民を見た。これはかたくなな民である。それで、わたしをとめるな。わたしの怒りは彼らにむかって燃え、彼らを滅ぼしつくすであろう。しかし、わたしはあなたを大いなる国民とするであろう」。

 モーセはその神、主をなだめて言った、「主よ、大いなる力と強き手をもって、エジプトの国から導き出されたあなたの民にむかって、なぜあなたの怒りが燃えるのでしょうか。どうしてエジプトびとに『彼は悪意をもって彼らを導き出し、彼らを山地で殺し、地の面から断ち滅ぼすのだ』と言わせてよいでしょうか。どうかあなたの激しい怒りをやめ、あなたの民に下そうとされるこの災を思い直し、あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルに、あなたが御自身をさして誓い、『わたしは天の星のように、あなたがたの子孫を増し、わたしが約束したこの地を皆あなたがたの子孫に与えて、長くこれを所有させるであろう』と彼らに仰せられたことを覚えてください」。

 それで、主はその民に下すと言われた災について思い直された。

ここでは、神様ははっきりと、ご自身の怒りを表明され、
イスラエルの民を滅ぼすと宣言されています。
しかし、モーセのとりなしにより、その怒りを収められたのです。


さらに、お父様のみ言を見ていくと、神様にとって
アダムとエバは初めての子供だったので、
アダムとエバの堕落のとき、

「神様が人間には想像もできない大きな衝撃を受けられた」
(御言選集18-一九五、一九六七・六・八)というものもあります。

また、『聖書』歴史は六千年、
さらにアダムからノアまでは千六百年になっていますが、
実際にはかなりの期間がたっているとも言われています。
この期間、神様は何をなされていたのでしょうか。

神様自身も、アダムとエバの堕落がショックで、人類救済に対して、途方に暮れる思いであった、
というようなみ言も聞いたことがあります。

実際に、堕落があまりにもショックで、しかも、その結果が
あまりにも悲惨であったために、救援摂理を進める気力もなく、
「もし、アダムとエバが堕落していなかったなら、
どんな世界ができていただろうか……」という思いに
ふけられたことがあったとしても、不思議ではないように思います。

そして、神様にとって、メシヤを地上に送ることは、
世界中の海の中で、たった一匹しかいない魚を釣り上げるよりも
難しかったとも、お父様は語られています。

復帰の路程においては、人間の責任分担があるがゆえに、
神様にとっては、本当に先の見えない歩みであったに違いありません。


ところで、神の怒りということを考えていくとき、
次のようなみ言についての質問を受けることがあります。

「旧約の主なる神の属性を見ると、嫉妬心の強い神として、
『私』以外の他の神に仕えるならば恐ろしく嫉妬される神様であり、
イスラエル民族にカナン七族を残らず滅ぼせと命じた残忍な神であり、
律法と法度に反したイスラエルの民を目の前で倒した無慈悲な神様です。

宇宙を創造された愛の神様であるのに、
このような嫉妬と、復讐と、恐怖心と、カナン七族を
無慈悲に滅ぼすという、こんな性稟(せいひん)があっていいのでしょうか。

旧約時代は、天使が仲保となって神様に代わった時代だからです」
(『天聖経』130ページ)


このみ言によれば、神様は愛の方なので怒りはなく、
旧約時代は、天使が仲保者であったので、(天使の怒りが)神様の怒りのように
見える部分があるのではないか、だから、
私がこれまで書いてきた神の怒りというものは存在しないのではないか、という質問です。

このみ言をどのように解釈したらいいでしょうか。
それが、この質問の答えになると思います。

確かにこのみ言によれば、旧約時代の神の怒りは、神様自身のものではなく、
天使長のものであり、神様はそのようなお方ではない、と理解することができます。
だとすると、私がこれまで展開してきた論理は崩れることになります。

ただ、このみ言をそのまま受け取るには、いくつか不自然な点があります。

まず、天使は神様の許可なく、
勝手にカナンの民を滅ぼせと言ったのかどうか、ということです。
天使が勝手にそのようなことをするとは思えませんし、
天使にはそうした権限はないはずです。

次に、先に述べたように神様と人間が親子であるならば、
同じような情をもたれるはずです。
なので、先に述べたような愛の神様も
怒りをもたれることがあるという理論的な結論が出てきます。

人間と同じような情をもたれないとすれば、
どのようにして親子の心情的な出会いができるのか、この点が問題になります。

(重複等を削除するなど、多少の編集を加えています
分責:ten1ko2)


「人間と神は親子」であり、
「神は心情の神である」ということ、
これは、真のお父様が出会われた神様の根幹であり、
確信部分であります。

そして、「心情」とは、統一思想によれば、
「愛することにより、喜びを得ようとする情的衝動」となります。

しかし、愛する対象が、神様ご自身の
願いの通りにならなかったなら、
「喜び」ではなく、「悲しみ」の存在になってしまいます。

昔、キリスト教神学を少しかじったことがありますが、
その講義の中で、キリスト教の教えの一つに、
「神は至福の神である」とありました。

だから、対象がどのようになっていたとしても、
神様ご自身は、「至福」なのだ、ということです。

そのようなキリスト神学的観点からすれば、
「神様が心情の神である」というのは、違和感があるかもしれません。

神様の情の世界をもう少し踏み込んで紹介しているものであり、
生身の神様をより深く表しているものであるでしょう。

「神様と人間が親子」であり、共通点があるとしたら、
さらによく理解できるのではないかと思うのです。

続きます。




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posted by ten1ko2 at 11:06 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする