統一神学校(UTS)の元総長、
神明(しんみょう)先生の信仰エッセー、第2回目は、
『日本人はキリスト教神学を教える資格がないと言われて』です。
なんとかUTSの助教授となった神明先生を
待ち受けていた次なる試練とは──
☆
いろいろな障害物を通過して、1985年1月初めに始まる冬学期から、
やっとのことUTSで教鞭を執るようになり、
その直後の4月初頭から始まる春学期には、
いよいよ 「キリスト教神学序説」 なる必須科目を教えました。
ところが、そこに待っていたのは、
やはり一部の学生からの日本人に対する偏見でした。
当時の UTS は殆どの学生が米国人食口でした。
それで、第二次世界大戦でサタン側のエバ国家であった、
雑教・多神教の日本出身の、どこの馬の骨か分からないような私が
キリスト教神学の講義を壇上からするわけですから、
それに抵抗する学生も中にはいました。
☆
その中に、私の講義を1、2回聴いた後、嫌になって、
必須科目なのに“二度と教室には戻るまい”と決意した
一人の白人の女子学生がいました。
彼女は悔し涙でチャッペルに走り込み、必死で次のように祈りました。
「神様、どうしてあの日本人が私たち米国人に
キリスト教神学を教えなければならないのですか」 と。
でもそのとき、彼女は霊界から声が聞こえてきたそうなのです。
「心配するな。あの日本人の男は、
このUTSの中で誰よりもクリスチャン的な人間だからね」 と。
それで彼女は、霊界がそう言うのならば(と)、
それが本当かどうかを確かめるために、
半信半疑ながらも一応教室に戻ることにしました。
そして、学期の最後まで私の講義を聴き、
やはり霊界の言うのは正しいと感じたとのことです。
これは、その学期が終わってから、実はこういうことがあったと
彼女の方から告白してきたので分かりました。
☆
私が当時、UTSの中で誰よりもクリスチャン的であったかどうかは分かりませんが、
もしクリスチャン的という意味が、神様から捨てられても
神様を捨てずに感謝して、勇気をもってみ旨を愛し抜く、
ということであるならば、それが少しは分かるような気もします。
当時私は、あまりにも忍耐せざるを得ない道を通過させられ、
それでも感謝し、そこにかえって神様の大きな愛の力を感じるようになり、
善人を見ると涙し、悪人を見ると愛ゆえに恋しくて更にもっと泣いていました。
☆
私が高1のときに、国際ギデオン協会が福島県会津地方の田舎の
私の高校にやってきて、新約聖書を無料配布してくれました。
そのときの新約聖書は肌身離さず持っていて、いつも読んでいました。
そして福音書のイエス様の言行にはひそかに感動していました。
でも洗礼は受けていないのでクリスチャンではありませんでした。
実家は仏教、神道、儒教が雑居する、それこそ雑教・多神教です。
(家系図の専門家からは、先祖の中に
処刑されたキリシタンがいると指摘されはしましたが。)
このような不足な日本人である私に、イエス様の苦難の土台の上に
真の父母様が生身でもって更に苦労して紹介してくださった、
本当の一神教の一片にでも触れさせていただき、感謝です。
ドクター神明の信仰エッセー UTS時代の神体験
『日本人はキリスト教神学を教える資格がないと言われて』
『日本人はキリスト教神学を教える資格がないと言われて』
☆
国際ギデオン協会の新約聖書は、
妻も配布を受けて愛読していたとのこと。
雑教の日本人の啓蒙のための摂理だったのかもしれません。
キリスト教を知らない日本人と
欧米人との溝は、
日本にいたままでは考えてもみませんが、
証しを読みながら、信仰を持つ人の中にも、
「プライド」や「こだわり」、「偏見」というものが
あるのだろうな、そのように思わされました。
統一原理、という新しい真理が出現したとき、
自分の信仰が一番である、という思いを持つ人は、
家庭連合のうわさだけを鵜吞みにして、
み言の本質を理解しようとはしません。
しかし、今現れている義人たちは、
心で、魂でみ言をとらえて、
お母様を、み言を受け入れています。
素晴らしいことです。
キリスト教の信仰の土台がない日本人が、
なんで、キリスト教を教えるのか、
そのような偏見に、精誠を持って対し、
見事に長子権復帰をされた神明先生の姿。
父母様の生き方に通じるものであり、
私たちにも大きく示唆してくださるものだと思います。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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