世界や人類を愛する以上に、
神様を愛することに気が狂っている
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神様を愛することに気が狂っている
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蝶野部長の夫婦講座、続編です。
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(祝福家庭の)夫婦の価値というものに我に帰らなければなりません。
ただこの世の幸せを求めてきた、というのは普通の夫婦にすぎません。
一般の結婚より、不倫、離婚がないかなという動機だと、普通の夫婦です。
自分に都合がよい、愛されたいという動機が変わってないまま。。。
配偶者を普通の男女と見ているだけ、ということになります。
だけど(祝福を)受けたから無原罪。
無原罪だけど、普通の夫婦と同じという家庭が量産されていく、
これは滅びの兆候があると思うのです。
祝福の価値にかえっていくのです。
自分の生い立ちのレベルで、配偶者を愛するのではありません。
心理学的レベルでは限界があります。
自分の相手はただの男、女じゃない、神様です。
祝福を受けたということはそうだということになります。
私の神様。
法廷論的には、血統に関してはサタンは讒訴できません。
無原罪だと言われれば無原罪です。
(ただし)本当の子どもなら親の心を通して全てを見る、
自発的な心があるはずなのにそうではない、
しかし戸籍には入ったという立場です。
本当の意味で心情を完成させなければ、
血統転換の最後を締めくくることにならない、
ということになるんだと思います。
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神の価値で相手を見る、
ともにみ旨を歩んだ運動体同志ではなく。
お父様は行動や運動体を通して一つとなれと言っていない、
愛で一つとなるというのです。
(これは)レベルが高い。
(私たちの祝福は)蕩減祝福であるが、創造(再創造)も入っているのです。
蕩減は再創造のためであり、蕩減のためだけの祝福はありません。
(「掃除」を例にとると)掃除が目的ではなく、部屋をきれいにするためです。
蕩減、穴埋めが好きというのはおかしいのです。
蕩減は自分が作られていくためのものです。
蕩減、穴埋め、清算が好きというのは異常なのであって、
真人間に成長して、神になるために摂理的には蕩減があるのです。
自分がつくられていくための蕩減です。
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(祝福家庭の)夫婦も、蕩減のためだけに
マッチングを信じてすべてを投げうちました。
2世は、(そのような)1世の信仰は凄いと言います。
しかし、「両親を見ていたら愛は見えない。
歩みはすごいけど、愛がない」(というのです。)
(逆に)2世を見れば、縦があれば鬼に金棒だが、縦が薄い、
縦的なものを入れていかないと、
ただ受けただけでは手放しで喜べません。
しかし1世の祝福は、こんなに夫婦が真反対でも
離婚の率は格段に少ないのです。
ということは縦がある(ということです)。
縦だけだと愛はない、縦を誇っても2世はしらけるだけなので、
あまり過去の歩みを誇るのはやめましょう。
メシヤを迎えるための武勇伝。。。
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なぜ私たちが苦労の道を行って、ここまで犠牲をして、最後霊界で
お父様と会おう、という群れになっているんでしょうか。
それは、お父様がブレなかった理由と同じですよ。
お父様の強靭な忍耐力と信仰はなぜあるのか、
「先生は君たちや世界を愛するためにやっているという以上に
神様のことで気が狂っているからだ」とおっしゃいました。
つまり縦軸があるわけですよ。
神様のことで気が狂っているから、どんなに反対されてもあまり動かないのです。
なぜ?横は気にならないのです。
横に関心が行ったとしたら、慰められようとしたら、
一発で世間体を気にするようになります。
お父様の心には、神様を慰めることしかなかったので、
興南に行く時も、真っ先に神様を慰めたというんですね。
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自分の家族を置いて、献身してきた私たち。。。
でも、本当は、氏族を伝道しなければならない、
そのようなみ言もありましたし、
親から反対されたとしても、み言を伝えなければなりませんでした。
お父様は、10日に一度、親に手紙を書け、
とおっしゃられました。
親を愛した条件を立て、み言を伝えるためでした。
ですから、一世である私たちも、
本来は氏族復帰をしながらみ旨を歩む、
そのような立場であったと思います。
ただし、お父様は、愛したくても愛せませんでした。
すべてを神様のため、そして私たち人類のために
尽くしくださり、現在の
愛すべきものを愛することができる
時代となったのです。
実際、当時は私たちにおいても、
厳しい現実がありました。。。
いくら親を愛していても、
この道に進むことを反対されたのなら、
神様に背を向けることはできない、というのが
私自身の本心の叫びでした。
このようにお父様が、何よりも神様を愛していかれた、
狂ったように神様を愛された、
その道が何よりも貴いし、
お父様が歩んでくださったので、
私たちも相続することができるのだと思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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