2019年09月24日

「信仰」を味わっていますか?! 神様が恋しい、アベルが恋しい!  《李ヨハネ先生のベスト・アンサー》



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李ヨハネ先生が日本の食口たちに、
信仰生活について、質疑応答を持たれたことがありました。

かつて何度か紹介しましたが、
改めて、心に刻んでおきたいと思うので、
時あるごとに紹介したいと思います。

今回は、
『信仰生活の味わいを知るにはどうしたらいいでしょうか』
に対する回答を紹介します。


信仰者は、まず自分を知ることから始めるのです。

そして今までの私はどれだけ方向転換したか、
今までの自分をどれだけ納得して信仰し始めたかという、
基本的な出発の動機を明らかにしなければならないのです。

信仰が長いからといって、
最初の動機と違った自分となってはいけないのです。
しかし、その動機自体も成長するので、
新しいみ言によって与えられた動機によって、
常に新しい自分となっていかなくてはなりません。


信仰者はだれでも、心配しながら出発した人はいないのです。
だれでも喜んで出発するのです。
嫌なのに、教会に来なければならないからといって、
強制的に出発させられた人は一人もいないはずです。

み言によって出発した動機は、
自分もこの言葉によって「復帰可能性あり」と願ったのが
一つの信仰の動機だったのでしょう。

アルファとオメガが同じでないと、
それは途中で何かに染まった者であるというのです。
み言による最初の動機がアルファです。
そのアルファがオメガの今日と同じでないと、
それは本来の自分と関係なくなってくるのです。

そして、次第に縦的に神と自分の関係を体験したがるのは、
情の働き出す当然の方向です。

まず、主体者との関係を結ばなければならないからです。
絶対なる神と自分との関係を結ばなくてはなりません。

生活の中で、自分は神様と共に暮らしているのかいないのか。
神がどのように自分と関係を結ぼうとしているのかが分からなくてはいけない。


カインとアベルの関係、これは神と自分との関係を結ぶために、
アベルを仲保者として立てたものです。

洗礼ヨハネとイエス様の関係でも同じです。
イエス様を通ずることによって、洗礼ヨハネと神様との間に
絶対的な関係を結ぼうとされたのです。
しかし、そこにおいて洗礼ヨハネは失われてしまった。


だから、私たちの失敗は、神を知りそうなところへ行って、よく失敗するのです。
関係を結ぶその瞬間に失敗して、いつでもいい気になっているのです。

神が自分と共にいるということを、どういう時に味わっていますか。
神を私の主体者として、はっきりさせておかないと、
私たちも主管されないままでいるのです。
目的観に立たないままでは、生活の中で価値を味わえないのです。

サタンも私たちと相対基準を結ぼうとして、神も私たちを所有しようとするのです。
その所有される責任、その基準というものは、実に私たちの中にあるのです。
神に所有されるべき信仰と心情で暮らすということ、
換言すれば、信仰基台と実体基台を立てるということは、大切なことです。

信仰と心情は一つでしょう。
主体者の立場に立つことが信仰であり、
主体者から力を得る体験をすることが実体基台です。
だから、信仰と心情は一体であり、信仰者には疲れがないのです。

主体者と方向が正しい人は、
絶対に疑いとか力が抜けるということがありません。
守るべき位置、自分の本心を中心とする位置を味わっているはずです。


聖書の中には、「貧しい人たちは、さいわいだ」(ルカ六・二〇)とあります。
また、「富んでいる人たちは、わざわいだ」(同六・二四)、
「今笑っている人たちは、わざわいだ」(同六・二五)とあります。

それは心情的に神を恋しく思う心をもつ人は
主体者のものとして所有されるからです。
主体者に対しての愛着心、方向を守る心が私の魂を成長させてくれるのです。

だから、今私が成長中か、止まっているかは、
私が中心にどれだけ心が引かれているかによって、
さらに分かってくるのです。

だから、まずそういった自分自身を知れ。
今、自分は主体との関係でどういう位置に立っているか。
バイオリンの弦のようにピーンと張っている人は、善悪を分別しやすいし、
そこに恋しさが生まれるのです。

関心あるところに成就がなされるのです。
信仰とは、主体者と私との関係の妙味を味わうことなのです。


成長して相対基準に立てば、どんな場面になっても、
神に主管されるようになるのです。絶対に主管されるから、
神の願いを知り、そこに私というものも侵入できない。

主体の立場を知れば、そこに私の悩みというものもない。
怨讐もなく、試練もないのです。
もしあっても、それは神と私の間をより密接にしてくれる試練だというのです。

イエス様は、十字架につけられて、
神と自分との関係を失ったのではありません。
それによって、もっと価値あるイエス様となられたのです。

このような合理的な迫害は、私たちに価値を与えるのです。
決してそれは苦労ではありません。
感謝して受けるものです。

それに不平を言ったり、反発する人は、
そこに自分というものが入っているのです。

しかし、自分というものを主体者のものにして、
主体者の願いを知ろうとする人は、
自分を否定することは簡単なことなのです。

より以上価値づける、今までの何倍ももうけるのだと思えば、
今までの愛着を切るのも問題ないでしょう。

信仰ということは、要は、いかに自分と主体者の関係を知って生活するか、
その生活の中での味わいをかみしめることなのです。



神様は目に見えないので、
その実体としておられるのが、
真の父母様です。

真の父母様に地上で侍ることができる、
そのことがどれほど尊いことであり、
また、さらには、天運の中心なので、
天運を相続することができることも、
本当に素晴らしいことです。

そして、私自身が、誰を主体に立てているか、
それが重要なのだと思います。

どんな時にも神様を主体に立て、
神様とともにある私であるとするならば、
アベルとの関係においても、
神様を中心に考えることができ、
そこに恩恵を感じることができるのだと思います。

常に神様を主体に置くならば、
洗礼ヨハネを始め、多くの信仰者が失敗していった
『愛の減少感』など感じることなく、
常に感謝して生活できるのです。

今後、不定期に紹介させていただきます。





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posted by ten1ko2 at 07:55 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年09月23日

ただ者ではない! 近くにいて見えてきた、父の奥深さ! 《金元弼先生》



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金元弼(ウォンピル)先生のみ言、『生活伝道 真の父母様に倣う伝道の精神』
今回は「先生の深い心情の世界」です。

ボンネッコル時代、金元弼先生は、生活費を稼ぐために
絵を描いてお金を稼ぎました。
その頃のお父様とのエピソードです。


私はお金を稼いでは喜んで先生に差し上げました。

ところが先生は、
「あなたが先回くれたお金で、米代、おかず代、燃料代、ランプの灯油代、
それと食口たちを助けてあげたお金がこれだけで、
このようにして全部使いました」と、
全部私に話してくださいました。

苦労して稼いだのに全部使って本当にすまないね、
と本当にそういう表情で私に説明してくださるのです。

私は当たり前のことをして、まだ足りないと考えているのに、
先生がそう言われるので、かえって心の中に寂しい思いをもちました。
それは、先生は私を信頼してくださっていないのだと考えたからです。

先生は、私がお金を全部何のために使ったのだろうかと
考えているのではないかと思われて、
私を理解させるためにこう言っておられるのではないかと考えたのです。

このようにとらえた時に、私は信頼されていないのではないか、
ということで寂しく感じたのです。


ところが、先生の考えはそうではありませんでした。
私を不信しているからではなかったのです。

それは、「本来は先生が全部稼いでこなければならないのに、
あなたにそのようにさせて本当にすまない」
という心情の負債を感じてそのようにされたのでした。

私が「先生は私を信頼してくれない」という寂しい心をもったのは、
この仕事は私の責任分担で先生の仕事ではない、
という考えをもったからなのです。

しかし、先生の考えはそうではなく、
「この仕事もあの仕事もすべて私の仕事、私の責任分担なのだ」
と考えておられたのです。

そればかりでなく、それを通して神の伝統を受け継いだ者として
食口を育てなければならない、という考えをもっておられるからなおさらです。

私はこういうことを通して、考え方の差を発見したのでした。


私は仕事や注文とかで、予定の時間に帰ってこれないことがありました。

すると先生は、私が事故に遭ったのではないかとか、
何か起こっていろいろ難しいことがあったのではないかと心配されて、
常に私が帰ってくる道まで来て、道端で待っておられました。

このように私に尽くしてくださるのに、私は近くにおりながら、
また近くにいればいるほど先生の深さを計り知ることができませんでした。


最初距離をおいて先生に対した時には、
本当に先生がものすごく大きく感じられたのですが、
一緒に生活するようになると
その大きさが分からなくなってしまったのです。

大きなものが自分と同じように見えてきたのです。
というのは、寝るのも一緒、食べるのも一緒と、
すべて一緒の生活をしていますと、自分も知らないうちに
だれでも自分と同じだと考える習性がつくのを感じました。


しかしそういう中にあって今度は、
これが逆に大きくなっていくのに気がついたのです。

先生は常にすべてが天宙のためであり、神のためであり、
一つ一つの生活がすべてそうです。

個人のためにある私は、最初はそれが見えなかったけれども、
そういう先生の生活を見ることによって、
先生がもっともっと大きく見えてきたのです。


聖別する時に使う聖塩は一九六〇年に聖婚式が行われてから作られましたが、
それ以前は聖塩を使うということはありませんでした。

しかし私は先生と一緒に生活する中で、
先生は普通に生活しておられるのではないということの
一つ一つを見つけることができるようになりました。

一つの例を挙げてみると、物を買ったり、人々が物を持って来たりした時、
非常に注意して見ていると、
先生はそれを召し上がる時に常に息を吹きかけておられるのです。

こうして、ただ生活している私としては、
このようにすべてを聖別して生活していらっしゃる先生のお姿を見るたびに、
それまで見えなかった深さをどんどん発見していくのでした。



お父様と元弼先生のやり取りを通して、
お父様は完ぺきに元弼先生の親だな、
そのように感じました。

金元弼先生の証を聞けば聞くほど、
お父様は「み言の実体」であるとわかります。
ただ、み言を語るだけのお父様ではなく、
生活そのものが、み言を実践しておられたことでしょう。

その中心には、心情がある、
まさに父母の心情である、そのように思います。

そして、ボンネッコルには、
そのとき元弼先生がおられましたけれど、
そこにいたのが『私』だったとしても、
お父様は同じように接してくださったのではないか、
そのように思うのです。





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posted by ten1ko2 at 08:12 | Comment(1) | 父母様の路程 生活の証し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年09月22日

一つになるため、私がガマンすれば。。。 これは違う! 《蝶野部長・夫婦講座8》



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蝶野部長の「カップルセミナー」
続編です。


夫婦のいろんな講話という形でやっていく時にですね、
「わかりました、じゃ夫婦がひとつになります。
じゃあ私が我慢すればいいんですね」
という霊界に入る方もおられるんですね。

けなげでいいんだけど、
ただ、我慢ってよくないですね。
(かといえば、それを聞いて)羨ましいっていう人もいますね。
「でもうちもそれくらい我慢してくれたら、俺もがんばるのにな」

県民性もあるからね、データはありませんが。
県によって違うね。ここ(千葉について)は知らないですね。

(たとえば)妻が「あんた!」なんて言って、
ここはとても男性が信仰的だなぁと(という県があります)。

そしてある県に行くと、男が仁義なき戦いのようで、
妻の方がぐっとこらえるんだけど、時々我慢できなくなってドッカ―ンみたいな。。。
男性が強くて、女性は「私さえ我慢すれば」と、
自分のセンチメンタルな世界に入っていって、
「これが信仰よ、お父様〜」みたいなね。


でも親、神が見たいのは、夫婦が一つになっているのを見たいんですよ。

という話をしたら私が我慢して一つになろう
という話になる(のですが、そうではありません)。

だいたいどっちかの意見が強くて、最後どっちかが折れて一つになる、
というのは一つになっていないからです。

「いやーご夫婦で話されないんですか」と聞くと、
「いつも主人が切れる寸前で、私が折れるようにしています」

喧嘩にならないのはどっちかが折れているから。
それは子供は感動しませんよ、ということです。(この内容は世界家庭に掲載)
それは結局一つになっていないのです。
どっちかが我慢して一つになるというのは、一つになっていないということです。

なんでそうなる?
私さえ我慢すればというのは情が離れているのです。
つまり二つになる取り組みなんです。
どちらかに合わせるということが一つになることではありません。


意見が合わないからこっちかが我慢する、これは愛でも何でもない。
でも喧嘩はない。。。
喧嘩がないからよいわけではないです。

お互い冷めきったら喧嘩もしないからね。
だから冷め切ってる場合には喧嘩をした方がいいですね。
冷め切っている場合はですよ。
理想は喧嘩がない方がいいでしょうけどね、もちろん。

喧嘩さえできないんだったら、それはした方がいいんですよ。
問題発言か。
(そういう夫婦は)情を出し合っていないのです。
授受作用にはならないんだけどね、喧嘩は。

でも、その手前で自分の言いたいことを出していれば、
自分が言えた、聞いてもらえたのがあれば、だんだん本音が出てくるし、
「ちょっと言いすぎたけど本当はこういう気持ちだったんだ」
と話すようになるんであれば、喧嘩したほうがいい。。。

どちらかに合わせるんじゃないと言うことです。

私たちは、一つになりなさいといったら、
配偶者に対して自分を否定しようとするんです。

うーん。相手は神様の半分だから自分も譲歩しなければならないか、
(というように)我慢する世界。。。
相手もそれがよいと思っている、かというと、これはそうではないのです。


(私たちは)相手を中心ではなく、神様を中心に結婚したんです。
配偶者を下さったのは天の父母様ですから。
だから配偶者から感じることは、天の意図があるんですよね。

もうわかっている、話すまでもなく知っていることですよね。
だけどここを毎日確認した方がいい。

皆さん、偶然ではないですよ、配偶者のクセ、性格、こだわり。
「内の主人潔癖症なくせにトイレ後に手を洗わない」とか…。

そこに引っかかるあなたの癖がある、
見つけるためにそのこだわりがある、
心理学ではない、偶然はないんです。

ですから、なぜこの相対者を与えたか、
「天の配剤(はいざい) 」を配偶者から感じることは、天の意図があるんですね。

「天の配剤」を相対者から感じなければならない、悟る、
これが神様を中心に相手を見るということなんですよ。


祝福に幻想を抱いて、ある2世は
「神様が与えた祝福だったらどんな王子様がくるんだろう」
そして受けてみたら「普通の人じゃん」って
後光でも差していると思ったか、
「なんか普通」と言っているんですよ。

(祝福の相手・相対者は)普通の人じゃない、
私にとっては神様が与えた、「お前の相手はこの人だ」と。。。
めちゃくちゃ神秘的な人です。
人から見たら普通の人かもしれないが、
奥さんから見たら旦那さんは、神秘の、神秘の、神秘の人ですよ。

なんで神秘的?
神様がお前用だと言われた、「お前が完成するための
お前とこの妻で私になるんだよ、その相手だよ」と。
(だから)めちゃくちゃ神秘的なんですよ。



先日、あることで(内容は忘れてしまいました)
私と妻が、それぞれの意見を話していました。

会話を聞いていた娘が一言、
「こりゃあ、お父さん、お母さん、合わないわ」
でした。

このように物事の捉え方は、
夫婦で見解が合わない時があると思います。

一般的にも、「男性と女性は、人間だけれど、
別の生き物であり、お互いが宇宙人だと思う」
そんな解釈をしている人も、たくさんおられます。

でも、だからこそ、配偶者を愛することが、
面白みがあるというか、私の成長に繋がるでしょう。

神様もそうやって夫婦が一つになることを
願っておられるにちがいありません。
神様を中心として見つめていくことが、
何よりも重要であると思うのです。





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