史吉子(サ キルジャ)先生の「原理に関するみ言の証」より、
自己否定の意義と秘訣、続編です。
☆
皆さん、統一教会に入教する時、喜んで入ってきましたよね?
原理が素晴らしく、神様のみ旨も素晴らしく、
希望を抱いて入教しましたよね?
ところで、入教してみたら、どうですか?
教会ではやりたくないこと、
できないことをしきりにやらせますよね?
なぜでしょうか?
それは、サタンが好きなことはどこまでも
サタンと一緒にいなければならないし、
私たちはそれとは反対に、やりたくないこと、
できないことをして自己否定をしなければならないからです。
献金することも大変ですよね?
でも、しなければなりません。
伝道も大変でしょう?
しかし、伝道しなければなりません。
祝福、皆さんも祝福を受けて、
また他人にも祝福を受けさせるのは
難しいでしょう?
しかし、祝福も受けさせなければなりません。
これがすべて自己否定の訓練、
神様へと帰るために訓練です。
☆
ある日、お父様に、
「ある食口が熱心に活動していましたが、
教会を離れてしまいました」と報告すると、
「そうか、その人は原理がよくわからなかったんだね」
とおっしゃいました。
なぜなら、原理が願うことは、
まさしく自己否定であるからです。
私たちが原理をよくしらなければならない理由が
何であるかと言うと、
難しくてもやるべきことは
必ずやらなければならないためであるし、
それが神様に帰る道であるためです。
それで、私たちは原理を学んでいます。
それで原理を知れば、私たちは不平不満を言うことができません。
私たちがやるべきことは、必ずやらなければなりません。
ひたすら全力を尽くして、やらなければなりません。
☆
お父様は、
「神様は私ができないことをしきりにさせたが、
私はそのたびに、
本当に死を覚悟して耐えながらここまで来た。
私がどんなにたくさん泣いて、
どんなにたくさん身もだえしたかわからない。
楽に歩んできたら、
統一教会がこんなにも発展することはできなかった。
神様がムチ打って押し出しながら、
やれと言われるので、ここまで来た」
と語られたこともありました。
☆
お父様は監獄に行かれる時も、運が良いとおっしゃるそうです。
普通の囚人たちは、監獄に行くと
監房に入りたがらないので、
看守が背中を押してやっと入るのですが、
お父様は走るようにして行かれるそうです。
どこに行かれても、神様はいつも
12名の弟子たちを準備してくださるので、
そこに行けば、間違いなく誰かが
待っているだろうと期待をして、喜んで入られるのです。
「今回、神様が準備している人は誰なのか?」と言って、
懐かしい人に会いに行くようなワクワクする心情で、
飛び込むように行かれるそうです。
それは、お父様が蕩減法を知っているからです。
☆
み旨の道は、自己否定の道。
確かにそうですよね。
私が献身したときは、
幼くて幼くて、何もわからない時でした。
「なんでこんなことしているんだろう」
み旨を歩みながら、我に返ると、
基準が下がっているときもありました。
しかし、神様は幼い者でありながらも、
み旨を通して、訓練してくださり、
少しずつ成長させてくださいました。
そして、限界にきたときには、
乗り越えて勝利してくださった、
真の父母様を見つめながら、
相続することを通して、
神様、父母様に近づくことができました。
「離れた人は原理をわかっていない」
お父様はそのように語られますが、
残った者たちも原理をどれくらいわかっているか、
そのように尋ねられたら、答えようがないですね。
しかし、神様、父母様に近づいていることは、
ハッキリと「アーヂュ!」と言えると思います。
これからも勝利された
真の父母様を慕いつつ、
歩んでいきたいと思います。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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