蝶野部長の夫婦講座、
続編です。
☆
(堕落したのちの復帰原理の信仰基台ではなく)
人間の本来の成長期間の信仰基台だったら、
(それだけで、すでに)愛になっています。
人は苦労すれば愛に転ずるのです。
信仰基台だけで、愛がからっからだとしたら、
(それは、本来の信仰基台ではありません)。
メシヤのための基台としては、
外的な象徴的、数理的な内容なので、
よしとすることもできるでしょう。
失ったものを取り戻すのが、信仰基台です。
しかし失ったものが何だったのか、
よく我々はわからなかったということになるかもしれません。
☆
信仰基台とは親心に達することです。
間接主管圏は、神様を愛する喜びで成長していきます。
親心の中に入っていくと、
目の前にいる人、横にいる人を愛したくなるんです。
つまり信仰基台が立てば、実体基台は自動的なんですね、ほんとは。
☆
ところが原理講論では、
「信仰基台は成功して実体基台は失敗した」と書くので、
私たちは、「信仰基台を立てたから、あとは実体基台ね」
(という言い方をしますが)
それは信仰基台の立て方が間違っているので
展開しないということなんです。
なぜ、「信仰基台」が成功したという風に表現されたかというと、
「メシヤを迎えるための条件」だったからです。
☆
みなさん、本当は自分作りのことなんですよ。
自分を作る話なんですよ、信仰基台、実体基台は。
自分を作る条件なのにお百度参りのような感覚に日本人はなっている。
何かを起こすために立てる条件。
違います。
創造原理は、信仰基台は、「成長して完成」だから、
私を作る条件のことなんですよ。
(そういう意味では、統一原理から)
統一思想に切り替えていかなければなりません。
信仰基台の立て方が間違っている。
メシヤを迎えるための条件だから、
成功、失敗(という言い方が出てきます)。
☆
ですから皆さん、
子供がお母さんをめちゃくちゃ愛して成長していたら
お母さんの情に立つでしょう。
そしたらブーブー言う兄貴を愛することができるわけなんですよね。
なぜかというと親心に入っているからです。
それが信仰基台、実体基台です。
だからめちゃくちゃ親を愛してるんだけど、兄貴は愛せません
というのは、絶対ないです。
ですから復帰原理においては、堕落性を脱ぐための蕩減条件というのが
ここに加わって来るんですね。
男性を立てるために信仰基台を立てるからです。
☆
一連のことを考えてみた時、信仰というものがそれなりにあるならば、
必ず愛という形に展開しているはずです。
もし愛せないという思いがあるならば、信仰基台が弱い、
あるいは間違って立てている、
あるいは、立てることによって自分が強くなっている。
おれは昔このようなことをやってきたんだ
というのが強くなってきている。。。
これは信仰基台とは逆の立て方になっています。
自分がなくなっていくというのが、(本来の)信仰基台です。
親を愛する、親の気持ちに入っていくから、
困った兄弟がいれば親の気持ちで愛します。
(それが)原理です。
信仰基台というのはめちゃくちゃ簡単よ、
皆さん、親心の話です。
親を愛して愛して、親の心に入ったら困っている人を
親の気持ちで愛せる親の愛する兄弟を愛せるでしょう。
本当の親孝行というのは、親を愛する子ではなくて、
親が抱えて困ってる、
「お前はいい子で家にいてくれて教会にも行ってくれる。
だけど長男は家を出ていない」
そういうお兄ちゃんを、親の心がわかって訪ねていく子供が
実体基台を立てようとする子供の位置なんですね。
☆
だから私たちは配偶者に対して、真のものが出てこないというときに、
神様を愛していないということがバレているということなんですね。
こういう話は、ぱっと初めて聞いてもわからないが、
原理を通してみれば、明白にわかるようになるのです。
☆
信仰基台が一番重要である、ということ。
確かに復帰原理では、「信仰基台が成功した」
そのように講論では記述されているし、
私たちもそのように習ってきたし、
そのように教えてきてしまいました。
しかし、よくよく考えたら、
蝶野部長の語られるように、
メシヤを迎えるための基台造成のため、
あくまでも条件的、象徴的勝利であり、
本当に信仰基台が立っていたら、
(ほぼ自動的に)実体基台が立つのです。
そして、「親心に入る」ということ。
天一国時代に入り、
また、二世、三世、と信仰を相続するにおいて、
このことは、本当に重要だと思いますし、
今の日韓問題にしても、
お互いに親心があれば、解決できるのにと思わされます。
やはり、お母様の語られるように、
神様に対する信仰、心情圏を持つことが
重要であると思うのです。
続きます。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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