浅川先生の自叙伝書写講話。
本日は、「幸せをもたらす心、不幸をもたらす心」です。
☆
私たちは誰でも幸福を求めて生きています。
幸福は愛することによって得られます。
それは当然のようですが、愛して本当に幸福になれましたか?
妻として献身的に夫に仕えたのに、
感謝されず黙殺されたことはありませんか。
そのとき、憎しみをもちませんでしたか。
夫のせいで不幸にさせられた、と思い込んでいませんか。
もし夫が不幸の原因であれば、あまり希望はありません。
なぜなら、夫がこの先、十年、二十年、
妻が願う性格に変わらなければ、幸福になれないからです。
しかも、夫の変化を期待しているうちに、お迎えが来るかもしれません。
しかし、ご安心ください。
不幸の原因は、夫のせいではありません。
原因はあなた自身の心にあるのです。
ちょっときつい言葉で言えば、あなたの幸福を求める心が意志薄弱なのです。
「愛の心で苦悩を断ち切る」ことができなかった結果なのです。
☆
人間には二つの心があります。
一つは、自分と相手を幸福に導く心。
一つは、自分と相手を不幸に陥れる心。
自分と相手を不幸に陥れる心とは、
憎しみ、過度な怒り、怨み、嫉妬、不平不満、
自己卑下、落ち込み、そして、他のせいにする心です。
これらの心は悪性腫瘍(しゅよう)のようなものです。
私たちの苦悩は、悪性腫瘍のような心からくるのです。
人のせいではなく、自分自身の悪性の心から生じているのです。
夫が妻に暴言を吐いた場合、妻は夫のせいで傷ついた、と思い込みます。
そうではありません。
夫の言葉に対する妻の怒りの心が自分を苦しめているのです。
許せないと思う心が自分を苦しめているのです。
その証拠に、窓ガラスに向かって
「ばかやろう」と何度怒鳴っても傷つきません。
窓ガラスには怒りの心がないからです。
夫婦の口論で窓ガラスが割れたら大変なことになります。
毎日夫婦喧嘩する家は地震が来なくても倒壊します。
人は相手の言葉を自分の心で受け止めてから反応しているのです。
その心の反応が、憎しみや怒りになったとき、その心が自分を苦しめているのです。
プライドの高い人は、「ばか」と言われると怒ります。
自分は賢いと思い込んでいるからです。
しかし、自分は「ばか」だと思っている謙遜な人は、
腹がそれほど立ちません。
事実を言われただけだからです。
☆
*自叙伝「平和を愛する世界人」より
私に取り柄があったとすれば、神を切に求める心、
神に向かう切ない愛がそれだったと言えます。
いつ、いかなる場所でも最も大切なものは愛です。
神は、愛の心を持って生き、苦難にぶつかっても
愛の刀で苦悩を断ち切れる人を求めて、
私を呼ばれたのです。
私は何も自慢できるものがない田舎の少年でした。
この年になっても、私はただひたすら
神の愛だけに命を捧げて生きる愚直な男です。
(自叙伝67ページ)
真(まこと)の愛とは、
自分の命までも捨てることができるものです。
そこにはいかなる計算もありません。
母鳥が命を捨ててまで雛(ひな)を守ろうとする
その心は、真の愛そのものです。
父母はいくらつらくても愛の道を行きます。
愛の前に自分の命を投げ出していくのが
父母の心であり、真の愛です。
(自叙伝219ページ)
浅川 勇男・著
(光言社・刊『文鮮明先生の自叙伝に学ぶ〜心のあり方』より)
第二章 愛の刀で苦悩を断ち切る
幸せをもたらす心、不幸をもたらす心
(光言社・刊『文鮮明先生の自叙伝に学ぶ〜心のあり方』より)
第二章 愛の刀で苦悩を断ち切る
幸せをもたらす心、不幸をもたらす心
☆
「原因は私自身の心にある」
なかなか厳しいみ言ですが、
これが事実であり、真実だと思います。
お父様の「栄光の王冠」の詩にもあるように、
お父様ご自身もそのように徹してこられました。
相手のせい、人のせいにしたらキリがありません。
全てが自分の責任である、そう受け止める人こそ、
また、神様の心情を本当に実感している人だと思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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