週刊Blessed Lifeのコラムに
「常識という理性をきっぱり捨てなさい」
という言葉がありました。
目に留まったので、読んでみました。
☆
トーマス・エジソン(1847〜1931)の言葉は非常に味わい深いものです。
エジソンといえば、1,300の発明をした人で、まさに発明王です。
白熱電球、蓄音機、活動写真、トースター、電気アイロンなど、
「電気」にまつわる彼の発明品の数々は、
20世紀を「電気の時代」にした最大の立役者が
エジソンであったことを物語っているといってよいでしょう。
彼は、エジソン・ジェネラル・エレクトリック(E-GE)という会社を
設立しますが、これがのちに米国の世界最大の総合電機メーカー
「GE(ジェネラル・エレクトリック)」になるわけです。
エジソンは発明家であると同時に実業家でもありました。
彼がどういう人物であったかを知ることのできるいくつかの言葉を見てみましょう。
☆
「ほとんど全ての人間は、もうこれ以上アイデアを考えるのは不可能だ
というところまで行き着き、そこでやる気をなくしてしまう。
勝負はそこからだというのに」
というエジソンの言葉は、
どこまでも諦めない精神の絶対宣言のようなものです。
普通の人が、いや、相当に執念深い人でも、
もうこれ以上駄目だという限界のところでさじを投げるでしょうが、
エジソンはそこからが勝負だという姿勢を取る
というのですから尋常ではありません。
この精神がエジソンを偉大な発明王にしたと断言しても構わないでしょう。
☆
「一日8時間労働制に感じた危機感は、
労働時間の不足などではない。
働くということが、ただの決まりきった作業になってしまうということだ」
というエジソンの言葉は、
非常に辛辣な内容を語っているように思われます。
エジソンの生涯を見ても分かるのですが、
労働時間とかそういうものに全く束縛されていない働き方を貫いていますから、
一日8時間労働制など、
ほとんど本質的な意味を感じさせないものであったに違いありません。
働くということが「ただの決まりきった作業」になるという指摘は、
今日の企業社会で働く多くの人々が陥っている落とし穴かもしれません。
「自分は、毎日18時間働くことにしている」と語ったエジソンにしてみれば、
一日8時間労働制などは到底理解できないことであったと思われます。
☆
「大事なことは、君の頭の中に巣くっている
常識という理性をきれいさっぱり捨てることだ。
もっともらしい考えの中に、新しい問題の解決の糸口はない」
というエジソンの言葉には、
エジソンがなぜ発明王になったのかという
疑問への答えが全て述べられています。
常識という理性を打ち破らなければ、
発明などできるものではありません。
もっともらしい考えも駄目だと言っています。
世の中には「常識という理性」
「もっともらしい考え」を非常に大切なものであるとする風潮があります。
しかし、常識などにとらわれていると、
より良い新しい社会をつくることなどできませんよと
警告しているのがエジソンです。
現在、日本でも世界でも問題は山ほどあります。
新しい問題の解決が求められている時代、常識というもっともらしさは、
時に社会発展の妨害物になる恐れがあります。
エジソンの言葉は底知れないほど深いのです。
コラム・週刊Blessed Life 84
「常識という理性をきっぱり捨てなさい」
新海 一朗(コラムニスト)
「常識という理性をきっぱり捨てなさい」
新海 一朗(コラムニスト)
☆
発明、というのは、啓示にも通じるものがあります。
センスというか、才能のようなものもあるかも知れませんが、
エジソンの努力、投入によって、
天から与えられたものがあるように思いました。
そして、「常識という理性」を
「きれいさっぱり捨てる」ということ。
これは、信仰の道に通じるな、と思わされます。
理論・理屈ではなく、感性の世界、
すなわち、情で感じたことを優先しなければ、
信仰を貫くことができない、と思います。
ちょっと話が飛んでしまいますが。。。
先日、長年、壮年部の重鎮として歩まれた方が聖和されました。
政治活動にも積極的に参加されて、
地元の市議候補に目をつけて、
その方を応援し、初当選しました。
その先生が、聖和1周年の記念礼拝に参加して、
涙ながらに証しをしていました。
苦しい時、厳しい時ほど、力を入れて助けてくれた、
○○のお父さんがいたから、今の自分がいる、
先生は、教会のイベントに積極的に参加されます。
そのお父さんの熱い情を感じたのだと思います。
コラムには、信仰のことが書かれていませんが、
何か、お父さんのことが思い出され、
私たちに願われていることだと感じさせられます。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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