金元弼(ウォンピル)先生のみ言、『生活伝道 真の父母様に倣う伝道の精神』
今回は「先生の深い心情の世界」です。
ボンネッコル時代、金元弼先生は、生活費を稼ぐために
絵を描いてお金を稼ぎました。
その頃のお父様とのエピソードです。
☆
私はお金を稼いでは喜んで先生に差し上げました。
ところが先生は、
「あなたが先回くれたお金で、米代、おかず代、燃料代、ランプの灯油代、
それと食口たちを助けてあげたお金がこれだけで、
このようにして全部使いました」と、
全部私に話してくださいました。
苦労して稼いだのに全部使って本当にすまないね、
と本当にそういう表情で私に説明してくださるのです。
私は当たり前のことをして、まだ足りないと考えているのに、
先生がそう言われるので、かえって心の中に寂しい思いをもちました。
それは、先生は私を信頼してくださっていないのだと考えたからです。
先生は、私がお金を全部何のために使ったのだろうかと
考えているのではないかと思われて、
私を理解させるためにこう言っておられるのではないかと考えたのです。
このようにとらえた時に、私は信頼されていないのではないか、
ということで寂しく感じたのです。
☆
ところが、先生の考えはそうではありませんでした。
私を不信しているからではなかったのです。
それは、「本来は先生が全部稼いでこなければならないのに、
あなたにそのようにさせて本当にすまない」
という心情の負債を感じてそのようにされたのでした。
私が「先生は私を信頼してくれない」という寂しい心をもったのは、
この仕事は私の責任分担で先生の仕事ではない、
という考えをもったからなのです。
しかし、先生の考えはそうではなく、
「この仕事もあの仕事もすべて私の仕事、私の責任分担なのだ」
と考えておられたのです。
そればかりでなく、それを通して神の伝統を受け継いだ者として
食口を育てなければならない、という考えをもっておられるからなおさらです。
私はこういうことを通して、考え方の差を発見したのでした。
☆
私は仕事や注文とかで、予定の時間に帰ってこれないことがありました。
すると先生は、私が事故に遭ったのではないかとか、
何か起こっていろいろ難しいことがあったのではないかと心配されて、
常に私が帰ってくる道まで来て、道端で待っておられました。
このように私に尽くしてくださるのに、私は近くにおりながら、
また近くにいればいるほど先生の深さを計り知ることができませんでした。
☆
最初距離をおいて先生に対した時には、
本当に先生がものすごく大きく感じられたのですが、
一緒に生活するようになると
その大きさが分からなくなってしまったのです。
大きなものが自分と同じように見えてきたのです。
というのは、寝るのも一緒、食べるのも一緒と、
すべて一緒の生活をしていますと、自分も知らないうちに
だれでも自分と同じだと考える習性がつくのを感じました。
☆
しかしそういう中にあって今度は、
これが逆に大きくなっていくのに気がついたのです。
先生は常にすべてが天宙のためであり、神のためであり、
一つ一つの生活がすべてそうです。
個人のためにある私は、最初はそれが見えなかったけれども、
そういう先生の生活を見ることによって、
先生がもっともっと大きく見えてきたのです。
☆
聖別する時に使う聖塩は一九六〇年に聖婚式が行われてから作られましたが、
それ以前は聖塩を使うということはありませんでした。
しかし私は先生と一緒に生活する中で、
先生は普通に生活しておられるのではないということの
一つ一つを見つけることができるようになりました。
一つの例を挙げてみると、物を買ったり、人々が物を持って来たりした時、
非常に注意して見ていると、
先生はそれを召し上がる時に常に息を吹きかけておられるのです。
こうして、ただ生活している私としては、
このようにすべてを聖別して生活していらっしゃる先生のお姿を見るたびに、
それまで見えなかった深さをどんどん発見していくのでした。
☆
お父様と元弼先生のやり取りを通して、
お父様は完ぺきに元弼先生の親だな、
そのように感じました。
金元弼先生の証を聞けば聞くほど、
お父様は「み言の実体」であるとわかります。
ただ、み言を語るだけのお父様ではなく、
生活そのものが、み言を実践しておられたことでしょう。
その中心には、心情がある、
まさに父母の心情である、そのように思います。
そして、ボンネッコルには、
そのとき元弼先生がおられましたけれど、
そこにいたのが『私』だったとしても、
お父様は同じように接してくださったのではないか、
そのように思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)