2019年11月10日

お父様からの直伝、人を「耳」で愛する?!  《浅川先生の自叙伝講話》





浅川先生の自叙伝書写講話。
今回は、「耳で人を愛する」です。
まず、自叙伝のみ言からどうぞ。

私は本当に人の話を聞くのが好きです。
誰であろうと自分の話をし始めると、
時の経(た)つのも忘れて聞くようになります。
十時間、二十時間と拒まずに聞きます。

話そうとする人の心は緊迫していて、
自分を救ってくれる太い綱を探し求めるのです。
そうであるならば、
私たちは真心を込めて聞かなければなりません。

それがその人の生命を愛する道であるし、
私が負った生命の負債を返す道でもあります。
生命を尊く思って、敬い仰ぐことが一番大切です。

(うそ)偽りなく心を尽くして人の話を聞いてあげるように、
私自身の真実の心の内も真摯(しんし)に話してあげました。
そして、涙を流してお祈りしました。


(自叙伝150〜151ページ)


幸福はどうしたら得られるのでしょうか。
愛することによって得られます。

夫婦は互いに愛し合えば幸福になれます。
親子は愛し合えば幸福になれます。
嫁姑(しゅうとめ)も愛し合えば円満になれるのです。

ところで、愛するというと、
一般的には相手に尽くすことを意味しています。

例えば、誕生日などにプレゼントするとか、
マッサージをしてあげるとか、
品物や手足を使って尽くすことです。

手足ばかりではなく、言葉でも人を愛せます。
愛のある言葉、優しい言葉、励ましの言葉をかけるのも愛することです。

笑顔でも人を愛せます。
母親のほほえみは、一瞬にして子供を元気づけます。
眉毛、目、口、頬が、丸くなって愛を表現します。
顔は人を愛するためにあるのです。

ところで、顔にはもう一つ、
人を愛するための大切な器官があります。
耳です。
正に、耳よりな話です。


文鮮明(ムン ソンミョン)先生は、
「心を尽くして人の話を聞いてあげる」ことが、
愛の実践であると言われます。

「私たちは真心を込めて聞かなければなりません。

それがその人の生命を愛する道であるし、
私が負った生命の負債を返す道でもあります。

生命を尊く思って、敬い仰ぐことが一番です」
(自叙伝150〜151ページ)



ところで、話の聞き方には二つあるようです。

一つは、自分のために人の話を聞く場合です。
自分のために人の話を聞く、というのはちょっと奇妙な感じですが、
実は多くの人がそうしているのです。

商品を販売したり団体に勧誘したり、
自分のために人の話を聞く場合です。
この場合は相手の話を聞くのが目的ではなく、手段となっています。
自分の利益のために話を聞くのですから、
無益と判断すれば話を打ち切ります。
時間がもったいないからです。

また、自分が愛されるために人の話を聞くこともあります。
この場合は、自分にとって耳触りの良い話は聞きますが、
気分を害する話なら耳を閉ざします。
自分のために聞いているからです。


文鮮明先生は真(まこと)の愛で多くを語り、多くを聞かれる方です。
人の話を、心を尽くして聞いてあげる方なのです。
聞いてあげることが愛の実践と思われているようです。

私たちの不幸は、それができないことによって生じています。
自分のために人の話を聞くので、
話によっては、不快な気持ちになってしまうのです。

また、相手の話を途中で折って、自分の主張を聞かせようとします。
人の話を最後まで聞かずに、
自分の思い込みや決めつけで相手を裁いてしまうこともあります。
これらは自分のために話を聞いている結果なのです。

もう一つの聞き方は、相手のために話を聞く、聞き方です。
では、相手のために話を聞くとは、どのような聞き方なのでしょうか。

文鮮明先生の言われる
「心を尽くして人の話を聞いてあげる」とは、
どのような聞き方なのでしょうか。
それには、三つの聞き方があるのです。

 
浅川 勇男・著
(光言社・刊『文鮮明先生の自叙伝に学ぶ〜心のあり方』より)
第五章 心を尽くして人の話を聞いてあげる


お父様はみ言を語られるチャンピオンであるとともに、
人の話を聞く、チャンピオンでもありますね。

人によっては、毎回同じ話をする人がいます。
こちらとしてはうんざりしてしまうのに、
それでも話し続けます。
そういう時は耳が受け付けなくなりますが、
それ以前に心が受け付けない、ということなのでしょう。

お父様は、
「十時間、二十時間と拒まずに聞きます」
と語られています。
この基準は凄まじいですね。

愛のかたまりであるお父様。
私たちも目指していかなければと思います。






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posted by ten1ko2 at 09:12 | Comment(0) | 浅川先生 自叙伝書写 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする