金元弼先生の『生活伝道・真の父母に倣う伝道の精神』から
今日は、「裏切った人をどう許すか(2)裏切った人をも愛し尽くす心」です。
☆
私たちは、友達関係や、兄弟関係においても、
自分が本当に愛し、信頼していた人が、約束を破ったりしたときには、
その途端にその人を「許せない」という心になるのが普通です。
そればかりでなく、私を裏切った人を自分も裏切って、
それで別れてしまうのです。
しかし、先生はそうではありませんでした。
そのことについて、次のように説明してくださったことがあります。
☆
ある人に、神の前にずっと尽くしてきた実績があり、
その善の実績が百あるとしましょう。
ところがこの人が先生を裏切り、神に反対すると、
その実績が一つ一つ減っていきます。
しかし、減って十ぐらいになっても、その十は神の部分です。
ですから、それを切るとするならば神の分を切るということになるのです。
ですからそれは切れないのです。
そして、善の実績がなくなり、悪の実績が増えてきた場合には、
切っても何も引っかかることがないのです。
しかしそれでも、先生は切らずに、愛の心をもち続けていかれるのです。
☆
ですから私たちは、人間関係において、
その人が尽くしたものがあるとするならば、
たとえその人が約束を破ったとしても、その場で断ち切るのではなく、
変わらない心で対していくということが非常に大事なことだと、つくづく感じます。
先回もお話ししたごとく、聖歌においても、
離れてしまった人が作曲した聖歌がありますが、
先生は、そういう歌だから聖歌の本に入れないようにと言われるのではなく、
かえって、その人よりもその歌を愛して歌っておられます。
そのように、食口が離れたとしても、
先生が変わらない心で愛していかれるがゆえに、
より良い人がつながって来たこともお話ししました。
☆
では、なぜより良い人が入ってくるのでしょうか。
それは、よくついて来る人を愛していくことは難しくないのですが、
私の話を聞かない人に尽くしていくということは大変難しいことだからです。
ですから、どちらが尽くす心がより高いかといえば、後者になるのです。
裏切られても尽くす心をもち続けていると、
より高い愛で尽くすがゆえに、より高い人が入ってくるということになるのです。
理解できますか?
そのことを、先生を通して習うべきだと思います。
☆
友達関係においても同じです。
愛し尽くし合っていた人に、ある時裏切られたとしましょう。
しかし、自分は変わらない心で尽くしていくと、
その十の基準の人を、十五の基準にもち上げる、創造の働きをするのです。
すなわち、たとえ私がある人を裏切ったとしても、
私を変わらない愛で愛してくれる人がいれば、
結局はその人について行くということです。
そういうことですので、常に私たちは、見えるものばかりではなく、
見えないものを見ることができるようにならなければいけないと思います。
☆
その当時、平壌から先生の故郷までは、歩いて大体三日の距離でした。
ですから先生はいくらでも、愛する親や兄弟、
親戚に会いに行くことができたのですが、
そうではなく、神のみ旨によって因縁をもった
食口たちを訪ねるために時間を費やされたのです。
先生が私たちを、親兄弟、親戚よりも愛されたというのは、そこなのです。
☆
先生は今もなお、変わらない心で私たちを愛してくださり、
導いてくださっているのです。
こういう心は、個人においても、家庭においても、教会においても、
世の中の人に対するときにも、同じく適応するものだと思います。
☆
聖歌の中で、作曲、作詞に「ANONYMOUS」とありますが、
これは、「匿名」とか「作者不詳」という意味です。
お父様は、離れた食口に対しても、
その時の心情を貴く思い、
歌を残されているわけです。
お父様は、本当に神様の代身、
真の父母様なのだと思います。
私たちは、マイナス的なことをすると、
すぐに負債を感じて、
立ち上がれない時があります。
「敷居が高くなって」教会に行けない人がいます。
別にその人が入れないように、
敷居を高くしたわけでもないのに、
本人が負債を感じていけない、というのです。
でも、天の目で見たら、特別なことでもなく、
むしろ来ないことの方が心配なのですが、
その人は、心配をしている私たちや、
天の心情を見ることができずに、
自分の殻に閉じこもってしまっているわけです。
もし仮に食口になにを思われたとしても、
天は、真の父母様はどう見ているだろうか。。。
そういう観点で見つめていければいいんですが。。。
私たちも、真の父母様のように
親の心情で接すれば、いいのですよね。
本当に実践することが重要だと思います。
※ このブログは、
あくまでも個人において、書いているものであり、
教会本部とは一切関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、ブログの記事においては
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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