Blessed Lifeのコラム
「『人間の力』よりも『神の力』によって」
この記事に目が留まりました。
皆様にも紹介したいと思います。
☆
「人間の力」よりも「神の力」によって平和はもたらされるといった場合、
それは、人間のつくり上げた現実的な力、
すなわち、経済力、政治力、軍事力などの、そのような力によって
真の平和がもたらされるものではないということであり、
「神の力」によってこそ、平和は可能になるということです。
その神の力を、神を認識する信仰的な人々の力が結集して発揮される
霊的な力と解釈するならば、
経済力でもなく、政治力でもなく、ましてや軍事力でもない
信仰的な力、あるいは神霊的な力であると考えることができます。
☆
モーセの後継者ヨシュアが、エリコ城を陥落させる時、
イスラエルの民は1日1回エリコ城を回り、
それが6日間続いた後、7日目にはエリコ城の周りを7回周って
民が時の声を上げ、角笛を吹き鳴らすと、
城壁が崩れ落ちたという話が旧約聖書にあります。
このエリコ城を陥落させるヨシュアの戦いは、
神を信じる信仰的な力、神霊的な力を掲げてなされた戦いであり、
神の不可思議な力が働いた戦いでありました。
こうして見ると、「神の力」を引き出すのは
神を信じる人間たちを基盤にしていることが分かります。
神を絶対的に信じる人間集団が神には必要であり、
そのような人間集団がなければ、
「神の力」も現れることはないという結論に至ります。
☆
神の存在を確信する「神の認識」は、どのようにして得られるのでしょうか。
神学者のジャン・ピエール・トレルは、
「神学の三要素は、信仰、啓示、理性である」とし、
これらの三つはそれぞれ重要であり、宗教的真理を知る上で
いずれも欠かせないものであるが、役割が違うと述べています。
宗教改革者のジャン・カルヴァンは、
「神の認識は理性ではなく信仰による」と言い、
また、他の神学者は、
「神学を証しすることができるのは、信仰を持った理性だけである」
と言っているように、究極的な神学的真理の認識は、
「信仰を持った理性」によって可能であるというのです。
☆
そうすると、神学は信仰によって獲得した真理を
理性の力で確かめて体系化することであり、
理性によって信仰に行き着くように導くのが
神学であると考えることはできないということです。
あくまでも、「神の力」「神の認識」を見いだす方法は、
第一に、「信仰」、あるいは
理性を持ち出すときも「信仰を持った理性」というように、
信仰を先立てることが重要であると見なければなりません。
☆
例えば、朝鮮半島の統一といったテーマを考える場合、
南北の経済力や政治力、軍事力などの分析から
統一の可能性をいくら議論しても、
それは「人間の力」を中心として統一を考えていることであり、
「神の力」によるものではないということです。
すると、「神の力」は何かと考えざるを得ませんが、
信仰の力の結集と見た場合、韓国のキリスト教、その他の宗教、
アメリカのキリスト教、日本の神道、仏教界、
こういった宗教勢力の総結集による
「祈りの力」「神霊の力」が効力を発し、
神の力が現れると考えるべきでしょう。
日韓米の教派を超えた宗教勢力の総結集が
南北統一を可能ならしめる
「不可思議な力」を顕現せしめるとしたら、
それは素晴らしいことであると言わざるを得ません。
コラム・週刊Blessed Life 92
「人間の力」よりも「神の力」によって
新海 一朗(コラムニスト)
「人間の力」よりも「神の力」によって
新海 一朗(コラムニスト)
☆
「祈りの力」とありますが、
実際にアメリカの複数の大学での研究結果によれば、
病気になった人のために祈ったグループと祈らなかったグループ、
祈られた患者の方が回復が良かったといいます。
宗教の和合と統一、ということで、
家庭連合の大きな大会でも、
様々な宗教指導者たちが祈りを捧げたり、
水を入れる儀式を行ったりしていますね。
何か、一つのパフォーマンスのように捉えがちですが、
こういった内容も天から見れば、
どれだけ嬉しいことかわかりません。
教会長が先日お話しされていましたけれど、
お母様が「為政者は、朝祈らなければならない」
これは、心と体の統一のことをいっている。
やはり、すべての問題の解決は、
神様を中心に一つになることである。
本当にそうだと思います。
すべての人たちが真なる神様に
祈りを捧げる時が来れば、
様々な問題が解決されるだろうし、
南北の統一も、やはり、
「神の力」でなければならない、
ということなのだと思います。
(余談ですが、上記の写真、
ノエル・ジョーンズ司教をはじめ、
聖職者たちが役事をしているシーン。
なんとも微笑ましいですね。。。)
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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