久しぶりに李ヨハネ先生のみ言を紹介します。
以前、紹介した『み旨に拠る生活』の後編です。
☆
イエス様に従っていった弟子たちは、
自分を中心としてイエス様に従いました。
ユダヤの国が独立してイエス様が大統領になれば、
自分も長官職を一度やってみようという考えをもっていました。
そうかと思えば、病気の人たちは、
病を治してもらおうとしてイエス様に従っていきました。
結局、イエス様に従っていった人たちの行跡は、
自分を中心とした考えや行為でした。
ではイエス様に拠る人はだれだったのでしょうか?
300デナリの油を注いで慟哭した女性が
本当にイエス様に拠る人でした。
その女性は本当にイエス様中心でした。
☆
今日、私たち教会員や職員がみな
そういう関係で通じることができさえすれば、
礼拝や集会の時に、本当に神が記憶することができ、
またその場にいなくても神に記憶されることができるでしょう。
神のみ旨による家庭、み旨による自分の職場、
み旨による自分の教会など、行く先々で
よく授け受けしていく関係を築くことができれば、
どれほどいいでしょうか?
それが信仰基台であり、実体基台です。
暗やみになるのを食い止める方法です。
私たちは信仰基台とか実体基台という言葉を
今まで何度も聞きながらも、実生活に具体的に適用せず、
あまりにもおろそかにしていました。
この信仰基台、実体基台は、あなた、私の間に
み旨を中心としてよく授け受けすることのできる、
そういう内的な関係を開拓することです。
☆
次に私たちが行く道に必ず出てくることがあるのですが、
それはあなたと私との意見の衝突です。
特に職員である人は、教会の心配を背負うので、
教会長とぶつかることが多いでしょう。
職員から見て教会長があのようにしては
いけないということが分かっていても、
教会長は言うことを聞かないでしょう。
教区長の命令を受けてしていることだといえば、
職員は返す言葉がないでしょう。
話してみた場合でも、かえって一言言葉が過ぎると、
「教会長を取り替えようとしている」とか、
「自分がアベルであってあなたはカインなのに私に従順に従わないのか」
とかいうことが多いので、用心してしまって、
話をしないようになるでしょう。
教会の心配はしながらも、教会の責任者と
見解が異なっている時は、とても苦痛が多いのです。
☆
家庭生活もそうでしょう?
家庭が神のみ旨によるものであってこそ神から福を受けるでしょうに、
妻が神は差しおいて自分の個性や素質を中心として生活するとか、
または夫人は信仰に愛着心があるのに、
夫は自分のやり方で生きていくとかすると、
本当に心が煩わされるのですね。
これが苦痛なのです。
職員修練会での説教
『み旨による私』より
1977年5月23日 中央修練所
『み旨による私』より
1977年5月23日 中央修練所
☆
李ヨハネ先生のみ言は、
私たちが神様を中心に、
いかに原理的に生活していくことができるか、
わかりやすくアドバイスしてくださるので、
とても感謝です。
教会での人間関係、アベルとの関係における苦痛、
これは「まったくありません」と答えることは
できないのではないでしょうか。
李ヨハネ先生は、
「300デナリの油を注いで慟哭した女性」
この女性が目標である、と語られました。
この女性は、どのような経緯をもって、
イエス様と出会い、その価値を知られたのか、
詳しいことはわかりませんが、
少なくとも自分を動機としていない、
というのは、ヨハネ先生のご指摘の通りだと思います。
神様のみ旨を中心として、
一つになって摂理を進めていく。。。
そのような観点で見つめていく必要があることは、
改めて認識していきたいと思わされます。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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