2020年01月14日

「置かれた場所で咲きなさい」=責任分担 私たち一人一人が大切 《信仰と「哲学」》



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光言社のBlessed Lifeに連載されている
「信仰と『哲学』」というコラムより、
「置かれた場所で咲きなさい」を
紹介します。


「置かれた場所で咲きなさい」とは、渡辺和子氏の言葉です。
2012年に発刊された同名の著作は200万部を超えるベストセラーとなりました。

渡辺氏は1927年に北海道旭川市で、
当時陸軍中将の渡辺錠太郎氏の次女として生まれました。

ところが1936年、9歳の時に悲劇が襲います。
「2・26事件」として知られる事件に遭遇したのです。

父・錠太郎氏(当時大将で教育総監)が
自宅の居間で青年将校らに襲撃されて命を落としたのです。
渡辺氏の目の前で起きた出来事でした。

その後、渡辺氏はキリスト教の洗礼を受け、米国留学などを経て、
1963年36歳の時、異例の若さでノートルダム聖心女子大学学長に就任。
2016年12月30日、89歳で亡くなっています。


「置かれた場所で咲きなさい」という名言とともに、
渡辺氏の

「いのちは大切だ。
といわれるより、あなたが大切だ。
と、言われた方が生きていける」

との印象深いメッセージもあります。

いずれの言葉にも、自分だけが直面している現実に
真剣に向き合う覚悟のようなものが感じられます。

「置かれた場所で咲きなさい」という
言葉の持つ響きはどのようなものでしょうか。
何か、突き放されたような感じを受ける人がいるかもしれません。

しかし人間にとって本質的なことは、
「私」「あなた」「彼」「彼女」はそれぞれが
絶対的に個性体であるということです。

すなわち、各自はそれぞれが「自分だけの現実」に直面しているのです。
現実問題として、その現実に対応することができるのは、
私以外にはいないのです。

例えば、困ったことに遭遇した時、誰かに相談して、
その人から「ああしたら」「こうしたら」という助言を受けることがあります。

それはそれとして重要なことですが、
結局のところ、やはりそれは「私自身」の問題であって、
いかに親身に相談に乗ってくれたとしても、その人の問題ではないのです。

厳しいようですが、私が置かれている本当の状況は
他人には分かり得ないところがあるのです。
助言を受けたとしても、それをするかしないかは私次第であり、
その結果も私が引き受けるしかないのです。

このような生き方、考え方を「実存主義」といいます。

信仰と「哲学」39
関係性の哲学〜「置かれた場所で咲きなさい」
神保 房雄
(Blessed Lifeより)


私も渡辺和子氏の書籍を読んだことがあります。
クリスチャンとして、与えられた環境を甘受する、
素晴らしい信仰を持たれた方だと思います。

「置かれた場所で咲きなさい」
これは、御自身が若い頃のすさまじい体験を
受け入れていかれた、
悟りの境地で与えられたことなのでしょう。

原理には、『責任分担』という
素晴らしい理論があります。

神様は、私たち人間が完成するためには、
自己の責任を果たすように創られた、
そのように解かれています。

『責任』
お母様もよく語られます。

環境圏は全て準備されて、
私たちに願いを託されるお母様。
その願いに応えるべく、
お母様に感謝しつつ、
今日も歩んでいきたいです。





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posted by ten1ko2 at 09:23 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする