2020年03月19日

お婿さんの食べ方が気にならず、感謝に変わった日 《自己牧会プログラム》



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「自己牧会プログラム」の体験談、
今日は、婿のマスオさんに複雑な気持ちを抱える
磯野波平さん(仮名)の証しです(?!)。



嫌な気持ちを抱いたときの魔法の言葉


娘夫婦と一緒に住むようになり、1年近くがたちました。

婿(むこ)さんは身長が180センチ以上あり、
とにかくよく食べるのですが、その食べ方が変わっています。

最初に、ご飯の上におかずを全部載せてしまい、
そこから一気にかき込むのです。
初めて見た時は、啞然(あぜん)としました。

また、みんなで箸をのばして食べるように準備した漬け物なども、
お構いなしに全部食べてしまいます。

さすがにその時には、
「おいおい、4人家族(私たち夫婦と娘夫婦)なんだから、
4で割れよ」と言いそうになりました。

 
婿さんは4人兄弟で、兄弟たちも皆、180センチ以上の立派な体格です。

聞けば、その家庭には「3秒ルール」というのがあって、
食事の時に3秒、誰も箸を付けない皿があったら、
それは自分のものというルールなのだそうです。

そういう中でもまれて育ったせいか、
まずは自分の食べる物を確保するという習慣がついてしまったようです。

そういう背景は分かっても、最初のうちは葛藤の連続で、
文句の一つも言いたくなることがよくありました。

 
そんなとき助けてくれるのが、「心の目で見る」ワークです。

人に対して嫌な気持ちを抱いたときの魔法の言葉として、
「真の愛を中心として正しく見させてください」
と唱えるのです。

そうすると自分の良心にアクセスすることができ、
本当は誰もけんかなんかしたくないし、
互いに一つになりたいと思っていることに気付くのです。

すると、相手を責める気持ちはすーっとどこかに消えてしまいます。

 
ある時、あまりにもカチンとくることがあったので、
「心の目で見る」ワークをしながら、良心に
「どうしたらいいでしょうか」と尋ねてみました。

そうしたら良心の答えはこうでした。

「娘をもらってくれただけで、ありがたいじゃないか」

なるほど、そうだと思いました。

うちの娘は、大学で物理学を専攻したバリバリのリケジョ(理科系女子)です。
物の言い方も理詰めでビシッとしています。
親からすれば目に入れても痛くない、かわいい娘ですが、
男性から見ると、いわゆる“かわいいタイプ”ではないのです。

そんな娘をもらってくれたのですから、
こんなありがたい婿さんはいないのです。

 
娘は最近、そんな婿さんが「慕わしい」と言っています。
そんなことは、思っても口にしないタイプだったので、驚きました。
婿さんが娘を変えてくれたのです。

最近は婿さんに対し、「よく食うな」から
「食べてもらえるのがありがたい」と思えるようになりました。

たまに仕事で食事の場にいないと、寂しいとさえ思ってしまいます。
こんな気持ちになれたことが感謝です。

(男性、60代)


自分の基準で物事を見ると、
裁きとか、要求の思いになりますね。

この「マスオさん」の場合は、
証しをしているお義父さんだけでなく、
客観的に見ても「ちょっとどうかな」
そのように思われても仕方がないかもしれません。

しかし、お義父さんは、
良心に尋ねてみたのです。

私たちも周囲の人たちに「?」
と思うことに対しては、
すぐに反応することなく、
良心の声に耳を傾ける、という
良い習慣性をつけたいと思うのです。




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posted by ten1ko2 at 10:11 | Comment(0) | 自己牧会プログラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月18日

雑教だがなぜ民度が高いのか?! 日本的精神性に、足りないもの──神の目を入れる



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2019孝情文化祝福フェスティバル
愛知県国際展示場 (2019.10.6)☆


お寺の檀家でありながら、神棚を祀る・・・
日本は、八百万、雑教の民族であると言われます。

しかしながら、世界に注目される文化をもち、
民度の高さ、強い精神性をもっています。

それは、どこから来ているのか。
Blessed Lifeのコラムより、興味深いお話を紹介します。


「主は言われる、背信のイスラエルよ、(わたしに)帰れ。
 …わたしはいつくしみ深い者である。
 いつまでも怒ることはしないと、主は言われる」

(エレミヤ書 第3章12節から一部抜粋)


「日本は非キリスト教国家なのに、なぜ、
こんなに高い文明と高い倫理観を持っているのか」
というのが、欧米人が持つ疑問と驚きだといいます。

つまり、キリスト教を知らない国は「低級な三等国」である
という認識が、欧米人の前提にあるからです。
この欧米人の疑問に答えなければなりません。

 
「日本には、『日本的霊性』というものがある」

と唱えたのは、鈴木大拙(1870〜1966/禅についての著作を英語で著し、
日本の禅文化を海外に広くしらしめた仏教学者)
ですが、
彼によれば、日本人の基層にはある独特の精神性があり、
これを

「禅と浄土教の他力思想が核となった
超倫理的、超精神的宗教意識」
といっています。

つまり、日本人には儒教や仏教やキリスト教などの外来宗教が来て、
それなりの影響を受け、良いところは受け入れるが、
基本的なところでは決して染まらない精神性があるというのです。


山本七平は、同じことを「日本教」と呼びました。

現住所は仏教であり、キリスト教であっても、
本籍は「日本教」だということでしょう。

日本的霊性の源泉を考えると、
@仏教の死生観
A武士道の儒教的規範性
B神道の世界観、
この三つにたどり着けると見られます。

そのうち、縄文・弥生時代以来の古神道の影響を
最も強く受け、これが日本的霊性の基層を成しています。

「自然を崇め、
 先祖を尊び、
 和と共生を重んじ、
 清浄を好む」

というもので、この神道的宗教観の上に、
仏教の無常観や武士道的な忠孝の規範性が加味されて、
日本的霊性が出来上がっていると考えていいでしょう。

 
この日本的霊性は、
エホバ(ヤハウェ)の神がいない日本において、
キリスト教倫理に匹敵する
高い倫理性の源泉になってきました。

曖昧で一貫性がない、ぬるま湯的で節操がないと
揶揄(やゆ)されることもありますが、
一方では、日本の「見えざる国教」として、
外来文化を柔軟に取り入れ、高い倫理性を持ち、
国民の見えざるアイデンティティーとして大きな力を発揮してきました。

 
しかし、「画竜点睛
(がりょうてんせい)を欠く」という言葉があるとおり、
日本的霊性には、他の全てのものがそろっているけれども、
肝心の目が入っていないというのです。

目とは「神」という観念です。
日本的霊性には「神らしきもの」はあっても、
「真の神」が存在しないということです。

聖書的に言えば、
「唯一にして創造主たる父なる神」の欠如
ということになるでしょう。

日本的霊性に「神という目」を入れることが、
これからの日本の大きなテーマになるのです。

 
「主は言われる、背信のイスラエルよ、(わたしに)帰れ。
 …わたしはいつくしみ深い者である。
 いつまでも怒ることはしない」


と言われる唯一神エホバは、いつくしみ深く、
いつまでも怒ることをしない神ですから、
日本的霊性で頑張ってきた日本民族をさらに高い使命に導くために、
また、世界平和の先導役の責任を任せるために、
日本民族の最後の仕事、
日本的霊性に神の目を入れる仕事をどうか頑張ってほしいと
願っておられるに違いありません。

それを一体誰がやるのでしょうか。

このコラムに接する皆さま一人一人であると申し上げます。

コラム・週刊Blessed Life
日本と一神教


「日本教」面白い発想ですね。
コラムでは、「日本的霊性」と表現しています。

日本人は信仰をもつこととか、
「宗教」という言葉に抵抗感のある人が多い
と感じてきました。

私自身も、み言に触れる前は、
「新興宗教・宗教団体」を毛嫌いしていましたが、
キリスト教から「異端」と呼ばれ、
世間からも疎んじられてきたところにいるのですから、
これも運命なのでしょうか。

神様は、世界中に散らばった人類の
地域性や個性に合わせて、
宗教や思想を準備されたといいます。

イエス・キリストがユダヤにおられた時、
日本は、まだ弥生時代でした。
しかし、現在は世界有数の経済大国になりました。
高度な文明を発展させてきたのは、
日本人の民族性だけではないと思います。

生きて働いておられる神様が
日本に天運を与えたからにほかなりません。

なので、「神様の目」を日本的霊性に入れる、
その使命を果たさなければ・・・
と、あらためて思うのです。





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posted by ten1ko2 at 11:03 | Comment(1) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月17日

再び神に出会う道のり、アボジはただの「出会い」をしない?! 《金元弼先生》



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金元弼(キム ウォンピル)先生のみ言
「理想的な出会い」続編です。



一番会いたいのは神

私たちは毎日のように、いろいろな人に
いろいろなことで会うという生活をしています。
会うということがどれほど難しいことであるか考えてみましょう。

もし、会う人もなく、自分一人でいるならば、
喜びも寂しいことも何もないでしょう。
しかしながら私たちは常に会う生活をしていますので、
喜びもあるし、寂しいこともあります。
そういうことを通して、私たちは成長していくのです。

ですから、良い出会いをすることによって
よく成長できることもあるし、
良い出会いをすることができなくて、
成長を非常に妨げられることも起こるわけです。

皆さん、会うということが非常に重要であることは、
お分かりだと思います。


皆さんと私はこのようにして会っています。
こうして会うことを通じて、
私たちには喜びもあるし、恵みもあるし、
他にもいろいろなことが起こるだろうと思います。

ですから、単に会うといっても、
どういう人に、どういうふうに会うか、
ということが問題になってくるのです。

つまり、私たち人間は、常に死ぬまで
いろいろな人に会うのですが、
私たちが一番会いたいのはいったい誰だろうか、
ということが重要な問題であるというわけです。


元々人間は、神から造られました。

造られた人間は、初めに神に出会いました。
初めて人間が神に出会った時には、神にも喜びがありましたし、
人間にとっても喜びでした。

ところが次に人間が神に出会った時には、
神の喜びも去ってしまいましたし、
人間の喜びも去ってしまいました。

なぜでしょうか。
堕落したからです。

つまりこの人間と神との、最初とその次の出会いとは、
同じ状態ではなかったわけです。
違ったわけです。

ですから、皆さんにも、この神と人間との出会い
というものがどんなに重要であるか、
お分かりいただけると思います。


神と人間との出会いには、必ず共通の目的があります。

神は人間だけを愛し、人間は神だけを愛する、
という目的があるわけです。

すなわち、これは創造理想の実現という
共通の目的であるわけですが、
それが成らなかった時に、
神と人間との間には距離ができてしまったのです。

ですから、神に再び会うには、
アダム、エバが神だけを愛するという期間が必要なのです。

このように私たちが神と出会うということは
重要なことなのです。


復帰摂理というものは、再び神に出会う道のりです。

この出会いにあって、私たちが持たなければならない条件は、
何よりも神だけを愛するということです。
この条件が問題になってくるのです。

アダムとエバの出会いにしても同じことです。

アダムとエバは、神だけを愛するアダムとして、
神だけを愛するエバとして出会わなければならないのです。
これがアダム、エバの出会いです。

こういうことを念頭に入れて、
私たちの出会いの実際の現状について考えてみたいと思います。



先生の出会いに対する心掛け

1976年のことですが、先生が幹部たちを連れて、
カナダを訪問されたことがありました。

その時、先生は海洋資源による食糧問題解決の道を求めて
訪問されていたのですが、何日間かをそこで過ごされている間に、
カナダの教会が、先生一行がカナダに来られているということを知って、
ぜひ教会に先生ご夫妻をお招きしたいと申し出てきました。

ところが先生はそれに応じられませんでした。
何回もお招きしたのに、カナダにいらっしゃったにもかかわらず、
カナダの教会を訪ねて行かれなかったのです。

その時先生はその責任者に、
「私がこの度来たのは、カナダ教会を訪問するためではありません。
他の目的があって来たのですから、
私の心はカナダの教会を訪問する準備をしていません。
そのように心を尽くして来ていないのです。
ですから、そういう状態で私はカナダの教会を訪ねることはできません」
ということを話されました。


皆さん、先生が他の所を訪ねられる時には、
どのように心を尽くされて訪ねられるかということが
お分かりいただけるでしょう。
理解できますか。

先生の訪問される目的がたとえ仕事のことであったとしても、
教会がありますからそこへ行ったら簡単でしょうに、
先生にはそれがなかなかできないのです。

先生の出会いに対する心掛けは、
食口たちに出会うことだけでなく、
韓鶴子夫人に出会うことにおいても
お子様に出会うことにおいても、
私たちとは随分違うということを、
理解しなければならないと思います。


普通、私たちは人とたやすく出会ってしまいますが、
私たちがよく知っているように、個人は家庭のために、
家庭は氏族のために、氏族は民族、国家のために、
そして国家は世界のために、世界は天宙のために、
天宙は神のためにあります。
これが善なる道であるわけです。

ですから先生が韓夫人に出会う出会いというものは、
先生自らが家庭を超え、民族、世界、天宙を超えて
神を愛する道を通して、韓夫人に出会う道であるのです。

これを簡単にいいますと、先生が
韓夫人やお子様に出会うには、
世界を愛してのちであるということです。

それが、先生と韓夫人の出会い、
先生が子女様に対する出会いなのです。
先生は世界を愛するという道を通してでなければ、
夫人やお子様に出会うことができないというわけです。

「理想的な出会い」
一番会いたいのは神
先生の出会いに対する心掛け
(1981年9月27日ベルベディア)


人との出会いに対して、
「神様が愛する」その人と出会う。
真の父母様が持たれている人との出会いは、
常に神様を中心にされているのだ、と感じます。

昨年末にお母様が世界巡回40日路程を組まれましたが、
あの時は、地球3周分に相当する距離を移動されたそうです。

ご自身の事情を考えれば、
1周回られることを考えて、計画することもできたかもしれません。
しかし、一国一国、VIPたちを「神様との出会い」
そのような認識を持たれたので、
無理に無理を重ねられた、ということになるでしょう。

私たちも出会う人を貴く思い、何よりも
ともに生活している家族に対しても、
世界を愛する心情を先立てて、
接していかなければならないと思いました。







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