2020年03月13日

韓鶴子総裁が赤十字に寄付 神の鼓動、地球の息遣いが聞こえますか?!《環境のみ言》



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自然を大切にして
保護する近道は、
自然を愛する心を持つことです。

一つの岩、一瞬の風にも、
神様の息遣いが隠れているのです。

「文鮮明自叙伝」より



真のお母様が韓国赤十字に寄付したことが
報道されました。

また、環境問題について調べていましたら、
ちょうど4年前の今日の記事に出会いました。
一部紹介します。

当時の週刊ブリーフィングより、
真の父母様のみ言、鮮鶴平和賞受賞者メッセージです。


地球温暖化により穀物の生産量が減り、
むしろ、2020年には世界の飢餓人口が
二倍に増加するだろうと
専門家たちは展望しています。

深刻な飢餓問題を解決することのできる
代案はどこにあるでしょうか?
地球星の75%を占めている海洋圏こそ、
新たな資源の宝庫です。

(真のお父様)




私は世界平和という究極の目標をなそうと、
人類の為に献身して来られた
文鮮明総裁と韓鶴子総裁に敬意を表します。


(鮮鶴平和賞受賞者 アノテ・トン キリバス大統領)



中国から飛んでくる黄砂とPM2.5によって
健康上の悪影響を受けています。
全ての生命体が脅威の中で暮らしています。

しかしこの国に言いたいことがあります。
軍事費用に天文学的なお金を浪費しているのに、
その内の3分の1だけ投入しても
面積の30%が砂漠化しているこの地に
植樹運動・沃土化運動をしたら
どのようになるでしょうか?

(真のお母様)



真の御父母様は、様々なことに取り組んでこられましたが、
地球環境問題もそのうちの一つです。
今回の新型コロナウイルスの問題に対しても、
とても頭を悩ませておられると思います。

先日、お母様は、韓国赤十字社に
3憶ウォンの寄付をされたといいます。
韓国で記事になりましたので、
翻訳を紹介します。


世界平和統一家庭連合 韓鶴子総裁が巨額の寄付金を寄託し、
新種のコロナ・ウィルス感染症(コロナ19)事態の拡散を防ぎ、
被害を復旧するための国家的努力に参加した。

韓総裁はまた、一部の教会がコロナ19の拡散の震源地となった点を考慮し、
家庭連合の各種活動を暫定的に中止させて、
礼拝など最小限の活動は家庭内で行うように措置した。

家庭連合は、韓総裁がコロナ19の拡散防止と被害復旧に向けて
3億ウォンを大韓赤十字社に寄託したと5日明らかにした。

韓総裁は寄付を行い、国家的な危機を克服するための団結を訴えた。
韓総裁は"コロナ19の拡散という困難を
国民皆が一丸となって克服する時"だとし、
"被害地域と危機克服に献身される方々に力になってほしい"と話した。
韓総裁が寄託した寄付は、尹永浩(ユン・ヨンホ)
家庭連合世界本部事務総長を通じて渡された。

韓国の赤十字社の朴ギョンソ会長は
"普段、地域社会に対する高い関心を持って
隣人の愛を実践する家庭連合すべての方々に感謝を伝え、
コロナ19の拡散防止に向けて最善を尽くす"と挨拶を伝えた。
寄付金は防疫物品や救護物品の購入に活用される予定だ。

家庭連合はコロナ拡散防止に積極的に参加するレベルで
教会活動を最小化している。
全国のすべての教会の日曜礼拝および各種宗教活動を暫定的に中断し、
家庭訓読礼拝に置き換えている。
また、コロナ19が世界的に流行する兆しを見せている中、
特別祈祷を捧げていると発表した。

家庭連合の関係者は"コロナ19の拡散による
世界的な危機状況が早期に収拾できるように
家庭での特別祈祷にも真心を込めている"と説明した。

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現在行われている40日間の精誠条件。
韓国の食口たちも同じように、精誠を捧げています。
父母なる神様もお母様と同じように
憂いておられるに違いありません。

私たちの祈りが天に通じて、
事態が収束に向かうように、
さらに切なる思いで投入していきたいと思います。






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posted by ten1ko2 at 06:45 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月12日

あなたの「あばら骨」に徹する幸せ?! 《李ヨハネ先生》



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李ヨハネ先生のみ言。
「孝」の続編です。

 
真なる夫婦関係

「夫婦有別」というとき、「別」は同位という意味ではありません。

「別」というのは、聖書の言葉でいえばあばら骨ということです。
すなわち、男性のあばら骨が女性だということです。

では、女性とは何でしょう。
男性の前に百パーセント
男性の分身にならなければならないということです。

あばら骨が身体全体の構造を考えないで、
自分が一番だと主張すれば死んでしまうのです。
ですから女性が強く自分を主張すれば、家が滅びます。
女性が自分を主張してはいけないのです。

あばら骨があばら骨自身を主張すれば、
その身体はどうなりますか。あきれた話です。


ところで、聖書にもこのような内容があります。

女性をなぜ創造したのか。アダムのために創造しました。
骨の中の骨であり、肉の中の肉として
アダムの喜びのために創造しました。
ところが、骨が身体だと言ったり、
骨だと言ったりしたらいけないのです。

身体の構造全体の立場から自分は手だと言うことはできても、
手が体だと言うことはできません。

それを主張することはできません。
このように話をするのは愛のみ言なのです。
事実がそうだというのではないのです。

 
「男性は女性のものであり、女性は男性のものだ」といっても、
女性が主人だというのではありません。

先生は「全大学教授招請講演会」で教授たちに
「男性が持っているものはだれのものか。
それが自分のものと思っているのか。
主人は女性である」と語られました。

自分が自分のものであると思って取り扱ったら、
大変なことになると言われました。

ところで聖書になぜ女性をあばら骨と表現したのか、
ということは先生も話されませんでしたが、
先生がそのように語られたのは、愛という動機によるものです。


ところが、今日西洋では、男性も女性も全く同じように取り扱い、
給料も同じように与えます。

このように女性の経済力が男性と同じようになり、
女性が男性の言葉を聞こうとしなくなりました。
自分が嫌いなら離婚し、好きなら再婚し……。
自分かってにするから滅びるのではありませんか。

本当に夫を尊重すれば、自分が自分ではないのです。


百パーセント夫のあばら骨だと考えてくっついていなければ、
女性は不幸になっていきます。

あばら骨という意味を私はそのように解釈します。
「主体者による私は、夫のものであり、夫は夫だ」
と言わなければなりません。

夫は妻のものであるというのは、話になりません。
私は神ではありません。
神が私の内にいらっしゃるからといって、
私が神だとはいえないのです。

私が父の内に、父が私の内にるからといって、
息子を父だと言うことができないのと同じです。


父が私の内にいるといいましたが、父は父であると言わなければなりません。

また、イエス様は神の内に、神はイエス様の内にいるといっても、
イエス様が「私は神だ」と言いましたか。
神をいつも敬いました。

女性も同じで自分は夫のものだと言うとき、
私は夫の内にいるけれど、夫は夫だと言わなければなりません。

ところが「夫は私のものだ。私の話を聞かなければならない」
と言えばどうなりますか。
考えてみてください。

ですから今日、アメリカの神学やアメリカの文化は、
滅びるしかありません。
行く道がありません。

第二章 孝誠の種 「孝」
真なる夫婦関係
1986年4月統一神学校
(この説教は、統一神学校の四年生を対象に語られたもの)


李ヨハネ先生は、女性の権利を主張する
女性解放運動を批判しています。

しかし、時代は進み、
個人の生き方や、家族のあり方について
「多様性」が叫ばれる時代となりました。

ジェンダーフリーから始まって、
同性婚合法化に対する運動など、
個人の考えを主張する時代になりつつあるのです。

そして、行き過ぎた個人主義の背後には、
共産主義の思想があることも忘れてはなりません。

共産主義の悲惨さについては、
別の機会にお話するとしまして、
聖書にはこのようにあります。

そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、
そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。
主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、
人のところへ連れてこられた。
(創世記第2章21節22節)

もちろん、文字通りに
男性のあばら骨で女性を造った、ということではなく、
その文面の意味を悟らなければならないのだと思います。

私たちは、神様御自身の中にある、
父性と母性が分かれた分身のような立場にある、ということ。
そのことを個人主義を主張する人たちに
認識していただけるようにしなければ、と思うのです。





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posted by ten1ko2 at 10:25 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月11日

1年以内に死ぬと思って生きなさい! 「死」と「良心」のみ言と証し 《信仰と哲学》



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つらく、くじけそうなとき、
真のお父様のように戦い続けるには、
どうしたらいいでしょうか──

お父様の素晴らしい回答が紹介されています。



「信仰と『哲学』」は、
神保房雄という一人の男性が
信仰を通じて
「悩みの哲学」から
「希望の哲学」へとたどる、
人生の道のりを証しするお話です。

 
死を前にしての不安こそが、人間が
非本来的生き方から本来的な生き方に転換できる
契機となるとハイデガーはいいます。

そしてその不安こそが
「良心」の呼び掛けであるというのです。

  
ところで、文鮮明師は「死」について、次のように語っておられます。

「皆さんは、どれくらい生きそうですか。
全員『70年、80年は生きるだろう』と、
このように考えているでしょう。
その前には死ぬと思いません。
皆さんは、欲張りです。

一生を生きるのに、80歳に死ぬとか、
100歳に死ぬだろうと信じるとしても、
あす死ぬか、きょう死ぬか分からないのです。

皆さんの考えには、『ああ、私は若いので、
今後少なくとも40年、50年は生きる』と、
そんな欲をみなもっているでしょう。
それが神様に保障されましたか。

皆さんは、できるだけ1年以内に死ぬものと
思いなさいというのです。
この短い時間にみな準備すべきです。
このような観念をもって生きなければなりません。

できるだけ短く定めるほど、幸福です。
短く定めるほど、損害をしないのです。
その期間に真(まこと)になるように、準備するその内容が、
自分の永遠の生命の家を建てるのです」


(「『天聖経』地上生活と霊界
第1章 有形・無形世界における人間の存在〈祝福と永生〉」より)

 
  
文先生は死の観念を持って生きることを強調しています。

そしてそれが真になること、
永遠の生命の家を建てることにつながっていくというのです。

死から逃れようとするのではなく、
死の観念を持つこととが必要なのです。

  
実は、死と「良心」の関係について
文先生から直接お聞きしたことがありました。

それは1990年代の半ば、アラスカでの出来事です。
アラスカの公館で、文先生のお話を伺う機会がありました。

そこで「誰か質問があるものはいるか」と言われたのです。
その時私は、対社会的活動の中で多くの攻撃を受け、
くじけそうになり、時には逃げ出したくなるような気持になっていたのです。

手を挙げて質問しました。

「先生のこれまでの歩みは闘いの連続であったことを知っています。
先生はなぜ、闘い続けることができたのでしょうか。
どのようにしたら闘い続ける力を持つことができるのでしょうか」と。

「間髪を入れず」とは、このことであると思います。
文先生は

「すでに死んでしまったものと思いなさい」

と言われました。
それから人間の良心について語り続けられたのです。

良心の力がいかに強いものであるのか、
素晴らしいものであるのかを語り続けられたのです。

良心の力は死への不安を克服できるものであることを説明されたのです。
それが闘い続けることができる原動力となったことを言おうとされたのです。

信仰と「哲学」43
関係性の哲学〜死への「不安」は良心の声
神保 房雄 (Blessed Lifeより)


「すでに死んでしまったものと思いなさい」
衝撃的なみ言ですね。

間髪を入れずに語られたみ言だったそうですが、
ということは、お父様ご自身が、
このような生活を生涯していかれたのでしょう。

今日は、3.11、東日本大震災から9年を迎えました。
一度に多くの人の命が奪われたことを思えば、
今日、明日に死ぬかもしれない私たちであることを
考えざるをえません。

私たちの生涯はいつまでかわかりませんが、
「良心」の力は、
「死」の不安を越えるということです。

お父様は良心の固まりのような、
まさに良心と一つになったお方だと思いますが、
私たちもお父様に似るべく、
良心を強めていきたいと思うのです。






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