この世に
生を享(う)けた人の中で、
無意味に
生まれた人はいない
「人類の涙をぬぐう
平和の母」
より
☆
生を享(う)けた人の中で、
無意味に
生まれた人はいない
「人類の涙をぬぐう
平和の母」
より
☆
金元弼(キム ウォンピル)先生のみ言、
「理想的な出会い」続編です。
☆
外的な目で見れば、今、先生は夫人、
子女様たちと同じ家で生活しておられるのですから、
先生はお子様に会うにしても、夫人に会うにしても、
世界を愛してから出会われているということを忘れてはいけません。
言葉を換えて言えば、先生は世界を愛してからでなくては、
たとえ夫人に出会ったとしても会っていないということです。
それを私たちは分からなくてはいけないのです。
☆
皆さん、世の中の家庭を見ますと、
どの家庭も同じ家で一緒に生活をしています。
外的に見ればそのように一緒にいて、いつも出会っていますが、
もし心がそれぞれ違っているならば、
内的には全然出会っていないということを、
皆さんも聞いて知っていることと思います。
それは一緒に暮らしていても、一緒に暮らしていないということです。
☆
では、私たちはどうでしょうか。
今、私個人のことを考えてみても、
自分の心と体が別々に動いているとするならば、
自分の心と体は一緒にいるのではなく分かれているのです。
もし、一つの部署において、あるいは教会において、
皆が一緒にいたとしても、
一人一人の心が別々であるとするならば、
それは一緒にいるのではなく、
別々に分かれているというのです。
私たちは現実の自分というものを、
はっきりと見つめていかなければならないと思います。
それは消化できていない自分を知らなくてはならないということです。
☆
私たちは一年、二年と同じ教会で一緒に暮らしながら、
どれだけ自分の心を打ち明けられますか。
寂しい時には「私、寂しいの」、
喜ばしい時には「私、とてもうれしいの」と、
お互いにそういう状態の話し合いをできる人が何名ぐらいいますか。
そのように聞いた時に、皆さんは何名いると答えるでしょうか。
そう言うと、たいてい「一人」、
「二人」、
「いない」と答えるのです。
これが現状なのです。
特に、本当に自分の心情を打ち明ける、という点になると、
「誰もいない」ということになるのです。
☆
皆さん、世の中では、10年、20年、30年間
一緒に生活している夫婦の間でさえ、
「あなたは私の心情をよく分かってくれない」
ということがよくあるのです。
これが世の中です。
そしてまた私たちの世界においても、
それが適用されているというのです。
そうですか。(はい)。
私たちはこれをはっきりしなくてはなりません。
そういうことを考えてきますと、
つまり夫婦の出会い、兄弟姉妹との出会い、
親との出会い、親戚との出会い、友達との出会い、
これらの出会いがうまくいっていない
ということが分かってきます。
それがはっきり分かることによって、
私たちが今後、このような出会いを
いかにしなければならないか、という道が開かれていくのです。
☆
私たちの心と体はいい加減に出会っています。
そしてまた親子の出会いもいい加減にしています。
夫婦の出会いもいい加減にしています。
そういう結論になります。
ですからさっきもお話ししたごとく、
先生の神様との出会い、先生と韓夫人との出会い、
先生の子女様に対する出会い、
先生の私たちに対する出会い、
それらがどういうものであるかということを
考えながら解決していきたいと思います。
☆
例えば今、私たちは相対者に会おうと思ったら
たやすく会えるものですから、
会うのはそれほど難しいものではないと考えています。
しかしながら、この出会いというものが
どれほど真剣なものであり、どれほど難しいものであるか
ということを立証するために、次の例をとってみましょう。
一人の人が神のみ言から離れて間違ったことをしたとします。
そうしたときに、今までそういうことがなかった時には
相対者にたやすく会うことができたのに、
間違いを犯したその瞬間、その人は、
自分の相対者に会うことがなかなか難しいことを感じるでしょう。
そうではないですか。
ということは、本当に神だけを愛した自分でない限りは、
相対者を愛する、相対者と会う
ということが難しいということです。
それがはっきり分かるだろうと思います。
つまり、私たちが神の善なる道を行き、
その道を通さない限りは、
自分の相対者に会うことができないということです。
何か分かりますか。
ところが私たちは、この相対者と夫婦の関係になると、
たやすく会えるものと考えてしまいます。
これは非常に間違った考え方です。
☆
メンバーとメンバーとの関係、
メンバーとリーダーとの関係も全く同じことです。
リーダーがメンバーと会う時、
「私はリーダーだから、たやすく会うことができる」
と思うかもしれませんが、
メンバーに出会うということがいかに難しいことであり、
真剣なことであるかを忘れてはいけません。
メンバーもリーダーに会う時、いつも同じ所で一緒にいますので、
それほど難しくないと考えるかもしれませんが、
それがどれほど難しく、真剣なものであるか
ということを忘れてはいけないのです。
「理想的な出会い」
先生の出会いに対する心掛け
(1981年9月27日ベルベディア)
先生の出会いに対する心掛け
(1981年9月27日ベルベディア)
☆
元弼先生は、本当に人との出会いを貴く思われておられます。
それは、真の父母様がそのような出会いをしておられるので、
相続をされたのだと思います。
負債のある時は会いずらい、というのは、本当にそうですよね。
しかし、会うときは、当たり前のように会ってしまう。
これを正さないといけないわけです。
天から与えられている自然万物に対しても、
「当たり前」だと思うのか、
心から感謝して生活するかによっても、
その人の心情基準が違うように、
いつも出会っている家族、
周りの兄弟姉妹たちに対しても、
心から貴く思う生活を心掛けていきたいと思います。
私たちはみな、自分が生まれたことに対して深く感謝しなければなりません。この世に生を享けた人の中で、無意味に生まれた人はいないのです。また、個人の人生は、その人だけのものではありません。一人の人が生まれる背景には、天と地のあらゆるもの、宇宙万象が縦糸と横糸として編み込まれています。全世界の、さらには全宇宙の機運が調和し、凝縮されているのです。
ですから、誰であっても、自分自身を取るに足らないものとして扱ってはなりません。宇宙の聖なる作用によって生まれた貴い存在であることを、心の底から悟るべきなのです。
「自叙伝 人類の涙をぬぐう 平和の母」p64より
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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