李ヨハネ(イ ヨハン)先生のみ言、
「何よりも神のものを愛す」より
「怨讐を愛する」です。
☆
先生が牢屋におられた時、一週間もの間、
口にもすることもできないような食事が出たことがありました。
その穀物の名前はよく分からないのですが、
皆さんよく御存じの、麦の皮がついたままの食事でした。
韓国ではそばを作る時の材料ですけれども、
皮をむかないものは非常に固く、
刃物のように角張っているのです。
それを皮をむかないまま煮て揚げるのです。
今まで皆様にお話ししてきたように、非常にひもじかったので、
量が多いだけありがたいという心持ちで食べましたが、
非常に固いので胃に痛みを感じる日が七日間も続いたそうです。
その時に、先生はどういう気持ちで
それを受け取られたのかを話したいと思います。
先生は、たとえ看守たちが囚人を早く死なせるために
このような食べ物を出すとしても、それは
人間の先祖が神のおきてに背いた堕落の報いであり、
それがどんなに厳しいものかということを考えました。
先生としては、かえって感謝の心で本当に真剣に
み旨の道、復帰の道を勝利していかなければならない
という深い決意に燃えたそうです。
☆
例えば、統一原理を人々に伝えていた時に、
反対してきたたくさんの牧師や政府の人たちに対して、
先生は何一つ弁明しようとされませんでした。
ある時、神様は先生に、
「牧師たちのお祈りを聞かせてあげよう」と言って、
スピーカーを先生の方に向けたそうです。
すると、「神様、どうか文を早く天にお呼びくださいませ。
早く死ぬようにしてくださいませ」
という祈りをするのを耳にしたのです。
先生は、彼らを恨むより、かえってこの人たちは
分からずにそうするのだから、
愛をもって伝えるみ言を牧師たちがたとえ聞き入れなくても、
その牧師の子供たちは神の方に帰ってくるだろう、
という強い決意をされたのです。
その当時、私たちは麦飯を食べることもできない
という困難の中にいました。
犬が残した物を食べるような状態でしたけれども、
先生はお金を全部かき集めて、
反対する牧師をホテルに呼び寄せて、
立派な食事でもてなし、立派な部屋に泊めて
統一原理のみ言を教えたのです。
☆
このように先生は人を憎むのではなく、かえって
迎えて愛していくというやり方をされました。
先生がそこで私たちに教えてくださったことは、
「お前たちは反対された時に、弁明しようとするな。
逆にその人たちが反対することによって喜びがわき、
神にもっと近づくというならば、私たちは
彼らが反対するのを願わなければいけない」
と、このような気持ちでした。
弁明しようとせず、やることだけきちんとやって、
実績を立てていこうというのが、先生の強い決意でした。
☆
先生がアメリカに来られた時、政府やキリスト教、
ユダヤ教がそろって反対しました。
先生は、「私が三十年前にここに来ていたら、
こういうことはなかったはずなのに、
遅れてきたのでこういう目に遭うのだ」と考えられました。
反対の声を、「なぜ早くこの国に
おいでにならなかったのですか」と聞き取ったのです。
そこで先生は、遅れた分までも、
この時間に全部やらなければいけないという気持ちで、
何倍以上もの心をささげられたのです。
☆
私たちが、色々やっていますと、
自分としては悪くないと思っても、
私たちに反対する人がいます。
そういう時にでも、その声は私に対して
「あなたはもっと心を尽くして、
神のために実績を上げるようにしなさい」
と言っているように感じ取らなければいけないと思います。
兄弟から、三六〇軒の人から、街頭の人から
反対されるような時にも、もっと人のために尽くしなさい
という言葉として感謝して受け取って、
もっともっと尽くすならば、結局は反対する人をも
神に帰属させる大きな力となるだろうと思います。
普通、怨讐を憎しみや力で裁きますけれども、
私たちは反対に、神に人にもっと尽くすことによって、
裁いていくという点で異なるのです。
憎しみの代わりに愛で、恨みの代わりに神のため、
人のために尽くすことによって、
憎しみでいっぱいになっている世の中を
変えていかなければいけないと思います。
U 先生の道は我々の伝統
第7章 何よりも神のものを愛す
「怨讐を愛する」
第7章 何よりも神のものを愛す
「怨讐を愛する」
☆
お父様の愛の世界は深いですね。
「恩讐を愛する」という言葉に集約されますが、
口で言うほど簡単なことではありません。
お腹が空き、体が大変になれば、
それ以上自分を犠牲にしたり、
憎むものまでも愛す、ということはなかなかできません。
ヨハネ先生が話されているように
お父様は、本当に具体的に
実際的に乗り越えておられるのですね。
お父様の愛は強く、大きいので、
私たちなら到底向かっていけず、
避けて行ってしまうような所も、
お父様はストレートに向かっていくのだな、
そういう風に感じました。
よく、「真の愛は、直短距離」と言われますが、
神様に通じる垂直のその道は、
火の中、水の中、茨に覆われたその先にあるのかもしれません。
限界の、追い詰められた状況の中で、
それでも真実に生きることができるのか、
その人の本当の姿が現れるのだと思います。
どこまでも真の愛を貫かれる
真の父母様に敬服いたします。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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