お母様が絶対服従したので、
短期間内で、
すべて越えてきました。
真のお父様
☆
短期間内で、
すべて越えてきました。
真のお父様
☆
60年前、真のお母様は、17歳でご聖婚されました。
それから、家庭的基台を立てるまでの期間は、
特に忍耐と苦労と犠牲の路程をいかれたとのこと。
36家庭・鄭大和(チョン テファ)先生の証し
『いつもたくましく雄々しくあられた』です。
☆
ご聖婚前、真のお母様は、
前本部教会の礼拝に来られていました。
当時は高校生でお下げ髪に
短いチマチョゴリを召していらっしゃいました。
口数も少なくていらっしゃったので、
私はその方がどなたであるかも知らないまま、
一緒に礼拝を受けていました。
そのうちに、そのお方が
「真のお母様」として認定されたのです。
お母様はその後、
目立って成長していかれました。
背も高くなられ、胸も大きくなられ、
脚も長くなられました。
☆
1960年のご聖婚式では、
真のお父様が非常に喜ばれて、
踊りを踊られたことを覚えています。
その日は、40種類くらいの祝典の供え物が、
高さ70センチくらいに盛大に調えられました。
そのときお母様は17歳で、
そこに侍る女性の誰よりも、
若くていらっしゃいましたが、
なぜか私の目には、そのお姿が大きく見え、
一切’幼い‘とは感じられませんでした。
この「子羊の婚宴」で、
私が最初に真の父母様に食膳をお捧げしたのですが、
それを今でも誇らしく思っています。
☆
ご聖婚後まもなく、お母様は身ごもられました。
父母様の最初のお子様は
男のお子様であると思い込んでいました。
ですからお産が始まると
「王子様が来られる」と書いたケーキを準備して
祈りながら待ったのです。
ところがお生まれになったのは、
女のお子様でした。
けれどもお父様は、最初からお母様に
「12人の子女を生まなければならない」
とおっしゃっていましたから、
お母様が早く妊娠されたこと、
そして王子様であれ、王女様であれ、
健康なお子様をお生みになったのは、
本当に喜ばしいことだったのです。
それでもお母様は後に、
当時の困難な環境での出産を回想されながら、
「非常につらかった」
とおっしゃったことがあります。
当時のお母様のお部屋は、
すきま風の入る寒い部屋で、
暖房といっても練炭ストーブだけでした。
生活環境が良くない中、無理をされたために、
出産後、お母様が健康を回復なさるまでには、
長い時間がかかりました。
☆
ご聖婚前も、そしてご聖婚式をおえられてからも、
女性食口の中に、
夫や子供がいる身にもかかわらず、
「自分がお父様の相対であるという啓示を受けた」
という人たちがいました。
甚だしきは、
お母様がいらっしゃるお部屋まで、
押しかけてくる女性もいたのです。
お母様におかれては、心労が絶えず、
人知れず多くの涙を流されたことと思います。
しかしながら、お母様はいつも
たくましく雄々しくあられました。
非常に忍耐心が強く、
感情的な表現をなさいませんでした。
そうして黙々と歩まれ、
お母様に対する批判を消化していかれました。
そして、「真のお母様」としての、
位置と威信を見事にお立てになったのです。
光言社発行
「真のお母様、感謝します」
『心を打つ50の証し』より
「真のお母様、感謝します」
『心を打つ50の証し』より
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お母様のご聖婚当時の証し。
とても貴重な証しです。
お母様の自叙伝にも書かれていますね。
お母様の試練は、
特にご聖婚されてからの方が
たくさんあることがわかります。
子女様を身ごもり、育てながら、
心身ともに試練を乗り越えていかれました。
鄭大和先生は、当時のお母様を
「たくましく雄々しく」
そのように表現しておられます。
この言葉は、
どちらかというと男性的な表現です。
つまり、華奢でか弱そうに見えるお母様は、
内的にはとても強いお方である、
そのように言えると思います。
自叙伝にはお母様がご聖婚される動機は、
「私の代でみ旨を終わらせる」
と書かれています。
この思いがあったから、どんな試練があっても、
微塵ともされなかったのではないでしょうか。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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