2020年05月16日

カインの祭物、神様目線で見てみると・・・取られなかったワケは?! 《入山部長》 



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入山部長の地域化講座、
今回は、「カインの祭物」です。


アダムとエバ(父母)が摂理の中心に立てなかったがゆえに、
代わりにカインとアベル(子女)を立てる摂理が始まりました。

それは、「善悪の母体」となったアダムとエバの立場を
二つに分けて一つにする、
「善悪分立摂理」を行う必要が生じたためでした。

アベルはアダムを身代わりし、
カインは天使長ルーシェルを身代わりして、
その関係の蕩減(とうげん)を清算するようになりました。

それで、アベルとカインの二人は同じ父母から生まれた
兄弟でありながら、それぞれ
「善の表示体」と「悪の表示体」という
「役割」を背負うことになったのです。

「表示体」とは役割のことです。
ですから、アベル=善人、
カイン=悪人ということではありません。
あくまで蕩減的に負わされた、
「役割」であり、ポジションなのです。


映画やドラマの世界にも悪役がいます。
「悪役商会」という、悪役を演じる
俳優さんたちのグループがあります。
彼らは、見た瞬間に「悪人」と分かるほどの
悪人の形相をしていますが、
本人が本当に悪人かどうかは分かりません。

実際は人のいいおじさんたちなのかもしれません。
彼らはあくまでも、「役割」を演じているだけなのですから。


「アベルの祭物」は神様に受け取られ、
祝福されましたが、それはアベルの精誠条件とともに、
その「役割」、すなわち
蕩減復帰摂理上の立場ゆえだったのです。

一方、「カインの祭物」は受け取られませんでした。
それもまた、摂理的な「役割」のためだったのです。

「アベルの祭物を受け取られた神様の立場と、
 カインの祭物を受け取られなかった神様の立場が、
 互いに異なるもののようですが、
 そうではなかったことを知らなければなりません」


(天一国経典『天聖経』1046ページ)

ここには、複雑な事情を抱えた、「神様のこころ」が現れています。

神様は、アベルの供え物は受け取り、
カインの供え物は受け取りませんでした。
つまり二人に対する態度が違っていたわけです。

普通に考えれば、態度は感情を表しますから、
好き嫌いや、愛しているか愛していないかという、
心の表れであるはずです。

つまり、態度だけを見れば、神様は、
アベルは好きで愛していて、
カインは嫌いで愛していないということになります。
しかし、み言(ことば)によれば、そうではないというのです。
 
神様の態度は違っていても、心すなわち
愛する想(おも)いは同じだったのです。
神様はカインの供え物は受け取られなかったけれども、
カインを愛していたのです。


それは、復帰摂理を始められた
最初の「神様のこころ」が分かれば理解できるでしょう。
悪に近いからといって、その子供を捨てる神様ではありません。

「カインに、天の立場を身代わりしていた
 アベルを通そうという思いが
 少しでもあったならば、
 神様はカインの祭物を取られたでしょう」
(天一国経典『天聖経』1046ページ)


(蕩減)条件のない復帰はない──というのが、復帰の原理です。
したがって神様は、無条件に供え物を受け取ることはできません。

しかし、ある条件さえ成立すれば、
「カインの祭物」を受け取りたかった、
祝福してあげたかった、つまり救いたかったのです。

神様はアベルの祭物を受け取りながら、
その目は、「カインの祭物」にも
熱く注がれていたのではないかと思うのです。

そして、いつの日か、「カインの祭物」を
受け取れる日が来ることを待望されたに違いありません。

カインの供え物を受け取ってあげたくても
受け取れなかった神様のこころは、いかばかりだったでしょうか。

『地域化講座〜地域づくりは国づくり〜天一国時代の伝道論』(4)
入山聖基・著
第一章 カインの祭物
カインの祭物


「表示体」とは役割のことであり、
「アベルは善人、カインは悪人ではない」
なるほど、本当にそうですよね。

しかし、アベルは、「神様から愛されている」
そのように思って傲慢になり、
カインは、「神様から愛されていない」
そう思って、怨みの人生を送ってしまいました。
それが人類歴史であり、
私自身の中にある、課題となってしまったのです。

私たちはみな、アベルの立場でもあり
カインの立場でもあります。
ともに神様の心情に立って
物事をとらえていかなければならない、と思うのです。






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posted by ten1ko2 at 07:31 | Comment(0) | 統一原理・統一思想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月15日

普通の叱り方、悪い叱り方・・お父様の叱り方は?! 《金元弼先生》



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金元弼(キム ウォンピル)先生のみ言。
今回は「どのようにして叱るのか」です。


あるメンバーに問題があった時に、
まず、その人の良くないところを見て、
「これをこう教えなければいけない」
という心をもつのが当然です。

ただ、その人を正しく導いてあげようということを
目的としなければなりません。

ところがその時に、自分の感情が介入すると大変です。
多くの場合は、そうなっています。

何回も教えてあげたにもかかわらず守らないという時に、
自分の感情は良くないのです。
そういう中でその人に、「こうしなさい」
と言うのはまずいのです。

それは正しく導くという美名に隠れて、
自分の感情を拡散しているのです。
動機が良くないがゆえに、叱りつけたりすると
心が不安になります。
叱られた人も気持ちが良くありません。

もし本当にその人のために叱ってやった時には、
叱られた人は喜びの心、感謝の心をもつものです。
そうでない時には、寂しい心が残ります。


厳しく話すのは悪くありません。
その前に相手から、どんなことを言っても
彼は私のために言ってくれる人であると
認められる期間をもたなければいけません。

彼は私のために食べないこともあるし、
私のために涙を流し、
私のために愛してくれる人だと認めたら、
ほっぺたを殴られても感謝するのです。
絶対に殴られたとは考えないのです。

ところが、そうでない時に打ったりするから、
恨みが残るのです。


もし、そういう気持ちがないのに、ひどく叱ったとしましょう。
そういう準備なくして叱ったとします。
その時には、そうした後で慰めてやらなければいけません。

「私がこのようにしたのは
実はお前が善くなるようにと思ってしたのだから、
よく理解してほしい」と言って
慰めてあげなければいけないのです。

そしてその人が、「はい、分かりました。
心配しないでください」
というところまでいって、初めて終わるのです。

時には、どんどん話したら、
泣きながら出て行く人がいます。
それは忠告した目的が達成できなかった時です。

そういう時には訪ねて行って、その人が、
私に言われる前のように
気持ちの快い状態に返るようにしてあげなければいけません。


だから、人に「こうしてはいけない」ということは、
そんなにたやすいものではないのです。

人は、自分が誤っていることを
自分自身で分かっている場合があります。
その人に、「お前はこれが悪い」と言ってあげたら、
もっと感謝の心が起こるようにならなければいけないのに、
気持ちが良くなくなることがあるのです。

人間は人に言われて完成するのではなく、
直接神に向かうようになっているからです。
ですから、そういう時には、
その人のために祈ってあげ、
その人のために尽くしてあげるのです。

ですから人を打つにも全部準備して打たないとだめですよ。
忠告するにしても、その人が誤解したらどうしようかと、
全部考えて話さなければいけません。
良くないことを厳しく言うのは、絶対に必要です。


厳しさにも、二つの種類があります。
冷たくする方法と温かくする方法です。

「悪い」と言われたら、もっと反抗心が出てくる人には、
温かさで接しなければいけません。

硬いものに硬いもので向かったら、全部砕けてしまいます。
硬いものには軟らかいもので、
軟らかいものには硬いもので向かうのです。
人によって違うのです。

静かに話してくれればいいという人と、
悪いのをあっさり悪いと言ってくれるのを好む人もいます。
人をよく見て話してやることです。

 
先生はたまには、殴ることもあります。
ただ、今まで私が三十数年の間でそれを見たのは、
二回しかありません。

その人は、心情的にあまりにも強い人でした。
その人は先生が自分のために犠牲になっている
ということをよく分かっていながら、
周りの人の言うことを聞かないで、
自分のやり方に固執していたのでした。

その人によって大勢の人が迷惑を受けたのです。
それでたくさんの人から讒訴されていました。

そういう状態はその人に良くないので、
先生が代わりに打ってあげ、
それで讒訴していた人の心をすっきりさせたのです。

にもかかわらず、さらに讒訴する人がいるとすれば、
その人が引っかかります。
先生が打って許したからには、
その人を愛さなければいけないのです。

 
先生の場合とは反対に、私たちが叱りつけると、
もっと近く、もっと愛するようになるのではなく、
もっともっと遠ざかってしまうのです。

目的とは全然異なった方向に行ってしまうのです。
それは、その人を教え導くという美名のもとで、
自分の感情を拡散したからなのです。

先生に叱られると、叱られる前よりも
もっと近く感ずるし、もっと愛を感ずるようになるのです。

そういう心がない時には、慎まなければいけません。
それに、ただそういう心をもっているだけではいけません。

相手が本当に自分を愛してくれている人だ、
心配してくれているんだというふうに、
相手に認められて、話してやらなければなりません。

その時には厳しく言ってもいいのです。



人を叱るということ。
いろいろと考えさせられます。

一番よくないのは、感情的に叱ることです。
相手にとってもよくないし
自分自身にもマイナスになるのです。

お父様の人間関係に対してのとらえ方は、
お父様が書かれた詩「栄光の王冠」にあるように
「私が間違っているのです」
だと思います。

全てが自分の問題と捉えられるお父様ですが、
それでも相手を叱られる、というのは、
その人を質さないとほかの人が
さらに影響を受けてしまう、という観点だと思います。

もう一つ、愛の関係、信頼関係が土台になっている、
「愛をもって叱る」ということだと思います。

人に対する接し方、特に「叱る」ということに関して、
学ばさせていただきました。





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2020年05月14日

(証し)イーストガーデンで受けた母の愛、忘れらない父のみ言



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お母様を生涯、
二時間か三時間しか
寝かせてやれなかったことが
申し訳ない


真のお父様



光言社の書籍
「真のお母様、感謝します」より
777双のお姉さんの証しを紹介します。

題目は
「『生涯、二、三時間しか
寝かせてやれなかった』とお父様」です。


1973年に渡米し、
ニューヨークのイーストガーデンで
真の父母様に間近に
侍る機会がありました。

イーストガーデンでは、
ご家庭のランドリーや
お食事の準備を担当しました。

イーストガーデンに入ったとき、
真のお母様は、

『真の子女様は
非常に重要な責任、使命、天命を持っているので、
皆さんは、子女様がサタンに
侵入されないようによく祈ってください』


と語られました。


お母様は、細かいことまで非常に
きちんとしておられるのです。

掃除にしても、
普段は目に見えないところまで、
例えばソファーのクッションの下まで
きれいにするように、
具体的に指導してくださいました。

洗濯物もきちんと
畳んでいないとやり直させられます。

父母様にしっかりと侍るには
信仰と体力の両面が
必要であることを痛感しました。


後に夫が日本から
アメリカにやってきたのですが、
その時、お母様は、
『あなたは洋服を持っているの?』
とお聞きになり、私に洋服一式と
靴までそろえてくださいました。

後にアメリカに着いた夫にも
上下の洋服を揃えてくださいました。

私たち夫婦が家庭を出発するとき、
お母様は、大母様が使用されていた
ベッドを使うように言ってくださり、
シーツ、たんす、電気スタンドまで
準備してくださいました。

そこはお風呂がなかったので、
父母様のご提案により、
シャワールーム、トイレなどの洗面室を
隣の場所に増設してくださったのです。


もちろんこのような恵みは
私たち夫婦だけが受けたのではありません。

お父様に侍って、
日々大変お忙しい中にあっても
衣類や靴下など
細かいところまで気を配り、
ご自分の息子・娘と同じように尽くしてくださる
お母様のお姿がそこにありました。

実の親と変わりなく、
いや、それ以上の心情を
全ての食口たちに注いでくださったお母様から、
『母の愛』を
感じることができたのでした。


お父様が

『お母様を生涯、二時間か三時間しか
寝かせてやれなかったことが申し訳ない』


と語られたのを聞いたことがあります。

イーストガーデンでのお母様の歩みを
思い出すにつけ、このみ言が
胸痛く思い出されるのです。

南孝子(777双)
「真のお母様愛しています」より


真の父母様に、直接侍るということは、
簡単ではないんだな、という印象を受けました。

私たちの家庭においては、
直接父母様に侍る機会は
現実的にはおそらくないでしょうが、
いつもお母様をお迎えできるように
準備することはできます。

「侍る」ということに関しては、
今の環境圏においても、十分可能だと思います。

真の父母様と共に生活する、
という心情をもつこと、
祭壇をしっかりと築いて、精誠を捧げること。
そして敬礼式を捧げる。。。

証しの中では、お母様からすべての食口に
注がれる「母の愛」を感じたとあります。

私たちもともに生活している、という意識を持てば、
そのような恩恵が与えられるのではないかと思います。

掃除にしても見えない部分にまで
気を配られるお母様ですから、
地球の裏側にいる家庭であっても
愛してくださっているに違いありません。

もっと日々の生活を質さないと、
と悔い改めさせられました。






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