2020年05月15日

普通の叱り方、悪い叱り方・・お父様の叱り方は?! 《金元弼先生》



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新型コロナウィルスの
終息を心からお祈りします☆


金元弼(キム ウォンピル)先生のみ言。
今回は「どのようにして叱るのか」です。


あるメンバーに問題があった時に、
まず、その人の良くないところを見て、
「これをこう教えなければいけない」
という心をもつのが当然です。

ただ、その人を正しく導いてあげようということを
目的としなければなりません。

ところがその時に、自分の感情が介入すると大変です。
多くの場合は、そうなっています。

何回も教えてあげたにもかかわらず守らないという時に、
自分の感情は良くないのです。
そういう中でその人に、「こうしなさい」
と言うのはまずいのです。

それは正しく導くという美名に隠れて、
自分の感情を拡散しているのです。
動機が良くないがゆえに、叱りつけたりすると
心が不安になります。
叱られた人も気持ちが良くありません。

もし本当にその人のために叱ってやった時には、
叱られた人は喜びの心、感謝の心をもつものです。
そうでない時には、寂しい心が残ります。


厳しく話すのは悪くありません。
その前に相手から、どんなことを言っても
彼は私のために言ってくれる人であると
認められる期間をもたなければいけません。

彼は私のために食べないこともあるし、
私のために涙を流し、
私のために愛してくれる人だと認めたら、
ほっぺたを殴られても感謝するのです。
絶対に殴られたとは考えないのです。

ところが、そうでない時に打ったりするから、
恨みが残るのです。


もし、そういう気持ちがないのに、ひどく叱ったとしましょう。
そういう準備なくして叱ったとします。
その時には、そうした後で慰めてやらなければいけません。

「私がこのようにしたのは
実はお前が善くなるようにと思ってしたのだから、
よく理解してほしい」と言って
慰めてあげなければいけないのです。

そしてその人が、「はい、分かりました。
心配しないでください」
というところまでいって、初めて終わるのです。

時には、どんどん話したら、
泣きながら出て行く人がいます。
それは忠告した目的が達成できなかった時です。

そういう時には訪ねて行って、その人が、
私に言われる前のように
気持ちの快い状態に返るようにしてあげなければいけません。


だから、人に「こうしてはいけない」ということは、
そんなにたやすいものではないのです。

人は、自分が誤っていることを
自分自身で分かっている場合があります。
その人に、「お前はこれが悪い」と言ってあげたら、
もっと感謝の心が起こるようにならなければいけないのに、
気持ちが良くなくなることがあるのです。

人間は人に言われて完成するのではなく、
直接神に向かうようになっているからです。
ですから、そういう時には、
その人のために祈ってあげ、
その人のために尽くしてあげるのです。

ですから人を打つにも全部準備して打たないとだめですよ。
忠告するにしても、その人が誤解したらどうしようかと、
全部考えて話さなければいけません。
良くないことを厳しく言うのは、絶対に必要です。


厳しさにも、二つの種類があります。
冷たくする方法と温かくする方法です。

「悪い」と言われたら、もっと反抗心が出てくる人には、
温かさで接しなければいけません。

硬いものに硬いもので向かったら、全部砕けてしまいます。
硬いものには軟らかいもので、
軟らかいものには硬いもので向かうのです。
人によって違うのです。

静かに話してくれればいいという人と、
悪いのをあっさり悪いと言ってくれるのを好む人もいます。
人をよく見て話してやることです。

 
先生はたまには、殴ることもあります。
ただ、今まで私が三十数年の間でそれを見たのは、
二回しかありません。

その人は、心情的にあまりにも強い人でした。
その人は先生が自分のために犠牲になっている
ということをよく分かっていながら、
周りの人の言うことを聞かないで、
自分のやり方に固執していたのでした。

その人によって大勢の人が迷惑を受けたのです。
それでたくさんの人から讒訴されていました。

そういう状態はその人に良くないので、
先生が代わりに打ってあげ、
それで讒訴していた人の心をすっきりさせたのです。

にもかかわらず、さらに讒訴する人がいるとすれば、
その人が引っかかります。
先生が打って許したからには、
その人を愛さなければいけないのです。

 
先生の場合とは反対に、私たちが叱りつけると、
もっと近く、もっと愛するようになるのではなく、
もっともっと遠ざかってしまうのです。

目的とは全然異なった方向に行ってしまうのです。
それは、その人を教え導くという美名のもとで、
自分の感情を拡散したからなのです。

先生に叱られると、叱られる前よりも
もっと近く感ずるし、もっと愛を感ずるようになるのです。

そういう心がない時には、慎まなければいけません。
それに、ただそういう心をもっているだけではいけません。

相手が本当に自分を愛してくれている人だ、
心配してくれているんだというふうに、
相手に認められて、話してやらなければなりません。

その時には厳しく言ってもいいのです。



人を叱るということ。
いろいろと考えさせられます。

一番よくないのは、感情的に叱ることです。
相手にとってもよくないし
自分自身にもマイナスになるのです。

お父様の人間関係に対してのとらえ方は、
お父様が書かれた詩「栄光の王冠」にあるように
「私が間違っているのです」
だと思います。

全てが自分の問題と捉えられるお父様ですが、
それでも相手を叱られる、というのは、
その人を質さないとほかの人が
さらに影響を受けてしまう、という観点だと思います。

もう一つ、愛の関係、信頼関係が土台になっている、
「愛をもって叱る」ということだと思います。

人に対する接し方、特に「叱る」ということに関して、
学ばさせていただきました。





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posted by ten1ko2 at 07:52 | Comment(2) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする