大知先生の【氏族伝道の心理学】
今回は、「親への敬拝について」です。
☆
私が、最初に親に対して行ったらいいと考えている方法は、
「큰절(クンヂョル)」です。
韓国語で、「大きな挨拶」という意味で、
教会で言う敬拝(キョンベ)です。
私は、親に侍ることの第一歩として、
自分自身の親に敬拝することを勧めている、ということです。
私たちは日本人、いえ韓国人以外の人たちは、
統一教会に来て初めて敬拝するという人がほとんどだろうと思います。
ですから、私たちは敬拝を宗教行事だと思いがちです。
敬拝の時間がきたら、真の父母様の写真に向かって行う
宗教行事として敬拝しています。
これは、イスラームが、メッカのカアバ神殿の方角に、一日五回、
決まった時間に礼拝(サラーもしくはサラートと呼ばれる)を捧げるのと
同じ感覚なのではないでしょうか。
☆
韓国の人たちにとっての敬拝は、私たちとは全く違うものです。
韓国人にとっては、敬拝は自分の親にするものであり、
自分の血統の上の人たちに侍る心情を表現する手段なのです。
韓国の人は、統一教会に来る前から親や祖父母、
親族やご先祖様に対して敬拝をしています。
ですから、韓国人が神様や真の父母様に敬拝をするのは、
神様や文(ムン)先生ご夫妻が親だとわかったからです。
神様や文先生ご夫妻が親だから敬拝するのです。
この点が、韓国人と私たちの決定的な違いです。
☆
敬拝は偉大な人に捧げるのではありません。
韓国ドラマを見ればわかると思います。
ある歴史ドラマの中で、その国の王子が、
国王に対して敬拝を捧げる場面がありました。
その時、王子と一緒にいた家臣は、敬拝をしませんでした。
王子は、国王だから敬拝をしたわけではなく、
自分の親だから敬拝を捧げたのです。
そして、家臣たちは、国王が親ではないから、敬拝をしなかったのです。
その家臣たちも、自分の家に帰れば、自身の親に敬拝を捧げることでしょう。
敬拝とは、そういうものです。
偉大な方だから敬拝を捧げるのではなく、
自分の親だから敬拝を捧げるのです。
もちろん、家臣が国王に敬拝をするときはあります。
それは、国の親として立っている国王に対して、
子供として侍る心情をもち、それを表現するために敬拝をするのです。
ですから、敬拝は子が親に対してするのが基本なのです。
ですから、韓国人にとっては、神様は創造主で、
文先生は再臨のメシヤで偉大な方だから敬拝をするのではなく、
神様は創造主で、文先生は偉大な方だというのは知っていたが、
親だということがわかった、だから敬拝をしよう、と考えるのです。
☆
韓国人にとって、親というのは特別な存在です。
ですから、お父様も、神様が親だとわかったということが、
天倫の秘密を解く鍵だったとおっしゃるのです。
神様が親だということがどうしてそんなに重要なのか、
それは、韓国人の心情をもたなければわからない世界なのでしょう。
敬拝の意味がわかっていただけたでしょうか。
☆
もう一つ、私の友人のある日韓家庭のエピソードを紹介します。
その家庭のご主人(日本人)は、ある時、
奥さん(韓国人)の実家に行ったそうです。
その日、奥さんの弟が、軍隊に行ってから初めての休暇で
実家に戻ってくるというのです。
せっかく久しぶりに軍隊から帰ってくるのだから、
家族皆で迎えようということになり、奥さんの実家に夫婦で行ったそうです。
その弟は、軍隊に行く前、いわゆる不良息子で、
あまり家にも寄りつかず、親を困らせてばかりいたそうです。
その弟が軍隊に行ってどうなったかも、興味があったと言います。
弟が、帰ってきた時、軍服を着て、髪の毛も短くしており、
それ以前ととても印象が違っていたそうです。
そして、その弟が、帰ってきて最初に言った言葉は、
「お父さん、お母さん、私は軍隊に行ってとても変わりました。
私が変わった姿をお父さんとお母さんに見ていただきたいです」
というものだったそうです。
そして、その弟はご両親に対して敬拝を捧げたそうです。
私の友人は、その敬拝を捧げる姿を見て感動し、
敬拝の意味を改めて感じることができたと言っていました。
☆
きっと、その弟は軍隊に行く前は親に反抗的で、
敬拝などしていなかったのだろうと思います。
そして、軍隊に行って変化した自分自身の気持ちを表現するために敬拝を捧げました。
敬拝とは、本来、そうしたものです。
こうした敬拝の真の意味を理解し、体恤するためには、
実際に親に敬拝を捧げるしかありません。
そして、親に敬拝を捧げるということは、
親を絶対的に受け入れ、肯定することです。
親を肯定的に受け入れることができれば、
自分自身を肯定的に受け入れることができます。
ですから、私は、相談に来る方に対して、
自分の親に敬拝を捧げることを勧めているのです。
(一部割愛 文責:ten1ko2)
大知 勇治・著
(光言社・刊『成約時代の牧会カウンセリング 氏族伝道の心理学』より)
第3章 氏族的メシヤ勝利と心の問題解決
親への敬拝について
大知 勇治・著
(光言社・刊『成約時代の牧会カウンセリング 氏族伝道の心理学』より)
第3章 氏族的メシヤ勝利と心の問題解決
親への敬拝について
☆
親に敬拝を捧げる・・・
確かに大知先生の言われるように、
日本人の私たちにとって、
敬拝をするのは、「一つの儀式」という認識であり、
親への挨拶、という概念は薄いと思います。
先日も、祝福を受けたけれど、み言をほとんど知らない、
信仰二世の男性に礼典生活の講義をしたのですが、
敬礼式に対して、「それって土下座ですか?」
そのような回答が来ました。
心情が伴っていないと、
そのようなとらえ方しかできないし、
一般の人たちの家庭連合に対する認識も、
そのようなものだと思います。
何よりも「親に侍る」という立場で、
敬礼式に対して、改めて
見つめなおさなければ、と思います。
韓国でも、お寺で、日本でいう
お百度参りのように、
何千拝も敬拝を捧げる場合もあるようですが、
それでも根底に親に捧げるという
孝情があるのかと思います。
親孝行したいと思うときには
親はなしと言いますが、
すでに亡くなっている父母、
あるいは、遠方の父母に対してどうしたらいいのか、
次回にお伝えします。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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