2020年07月25日

地獄の三重苦の新婚生活、お母様が7年路程で勝ち取ったものとは 《平和の母に見る10大奇跡》



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浅川先生の「『平和の母』に見る10大奇跡」
今回は、『第5奇跡〜愛の減少感の克服』です。

 
韓鶴子夫人は聖婚後、多くの困難と試練に立たされました。
平穏な新婚生活とは全く無縁でした。

17歳(数え)で、教会の指導者にして再臨主・
文鮮明先生の妻になったことを、
多くの人が心から祝福したわけではありませんでした。

文先生の聖婚に相手として、
当初、韓鶴子夫人の名前は候補者名簿にさえなかったのです。

「当然、自分が妻になるべき」
と思い込んでいる女性もいました。
文鮮明先生の聖婚の相手が韓鶴子夫人に決定した瞬間、
「なぜ、どうして?」「妻として大丈夫なの?」といった、
さまざまな懐疑心、不満、ねたみ、嫉妬が渦巻きました。

 
それも耐え難いものでしたが、韓鶴子夫人は
夫である文鮮明先生からも耐え難い試練を受けたのです。

文先生は、韓夫人を母親と別れさせ、
さらに母親に対しては「これから三年間は私の前にも
姿を見せないでください」と厳命し、
親戚との関係も全て断つようにしたのです。
(光言社 文庫判 文鮮明先生自叙伝
『平和を愛する世界人として』219ページ)


そのため、韓鶴子夫人の心情的支えとなる人は
身近に全くいなくなりました。
出産の際に母親がサポートすることもできなかったのです。

 
さらに文鮮明先生は、新婚にもかかわらず妻とは同居せず、
妻を他の家に間借りさせ、教会に来ることも
一日に一度しか許可しませんでした。

しかも韓鶴子夫人は夜に教会を訪れ、帰る時には
裏門から静かに出ていくように命じられたのです。

文鮮明先生は、事あるごとに、妻の韓鶴子夫人をとがめました。
言葉を一言間違えただけでもとがめ、
「うれしい」と言ってもとがめました。

韓夫人は薄氷の上を歩くがごとく、
大変な日々を過ごしたのです。

文鮮明先生は、当時を振り返って言われています。

「妻の心の中の悲しみはさぞや大きかったことでしょう」

「その苦労たるや言葉で言い表せないものが
 あったに違いありません」


(光言社 文庫版 文鮮明先生自叙伝
『平和を愛する世界人として』221ページ)。

 
 
サタンがサタンになったのは、
愛の減少感を越えられなかったからです。
サタンは愛されているのにそれを感じ取ることができず、
愛の減少感や疎外感を克服できませんでした。
そして神に反抗するようになったのです。

最大の試練は愛の減少感です。
サタンが越えられなかった愛の減少感を越えてこそ、
「真の母」になれるのです。
それができなければ、サタンは永遠に讒訴(ざんそ)し続けます。

文鮮明先生が韓鶴夫人に与えた試練は、
サタンを屈服させ、
夫婦が完全に一体化して真の父母の道を歩むだったのです。

 
その真意を韓鶴子夫人は悟っていました。
この試練の期間を見事に乗り越えて、

「やがて目を見るだけでも
 お互いを理解できるようになりました」

(韓鶴子総裁自叙伝『人類の涙をぬぐう平和の母』128ページ)。


そして聖婚後の試練は韓夫人を飛躍的に成長させたのです。

 
「忍耐という苦い種が一つ一つ実を結び、
 いつの日か、光輝く誇りとなるのです」


(韓鶴子総裁自叙伝『人類の涙をぬぐう平和の母』130ページ)


『平和の母』に見る10大奇跡 5
第5奇跡〜愛の減少感の克服
浅川 勇男
「平和の母」シリーズ
(韓鶴子総裁自叙伝『人類の涙をぬぐう平和の母』関連記事)


お母様の信仰の強さ、と表現したらいいのでしょうか。
本当に愛の減少感を勝利されたお母様です。

お母様の自叙伝には、
『忍耐・・・』という記述がありますが、
お父様の自叙伝に書いてあるような、
結婚初期の詳しい様子は書かれていません。
『辛かった、苦しかった』という言葉はありません。

むしろ、
「どれほど大変な環境だったとしても、
私はそれをしっかりと受け止め、
楽しみを見いだしながら、
幸せに過ごしました。
背後で役事していらっしゃる神様のみ手を
片時も忘れることはありませんでした」
(平和の母123ページ)

「私は自分が果たすべき使命を
よく理解していたので、
祈りをもって、それらの苦難を乗り越えていきました」
(同、125ページ)

祈りをもって、
神様とともに乗り越えていかれたお母様でした。

お母様以上に愛の試練を通過された人はいないと思います。
なので、厳しい試練の時は、
お母様を思い、ともに乗り越えることができるのだ、と思うのです。






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2020年07月24日

「性格の不一致」から真の愛が始まる・・・みんな違ってみんないい 《阿部局長》



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阿部美樹先生のコラム「家族の絆づくり」
『違いは愛のために存在する』です。


夫婦の関係、親子の関係、職場の人間関係など、
関係性について悩みを持つ人は、
「相手との違い」に悩んでいるのではないでしょうか。

「考え方の違い」「性格の違い」「感性の違い」
「習慣の違い」「趣味の違い」「嗜好(しこう)の違い」
「価値観の違い」など、多くの違いがあります。

自分の判断基準だけで捉えれば、
「自分とは違う!」という違和感が
ストレスになって負担を感じてしまうことでしょう。

しかし違うことが本当に不幸の要因なのでしょうか?

自分を標準(普通)と考えて、全てそれに合わせようとすれば、
一部の似通ったものを除けば、
ほとんどが葛藤と分裂の要因になりかねません。

それぞれが違った性質を持っており、全ての人が違うからです。

両手を比較して見ると、右手と左手は向きが違います。
手のひらが両手共に右を向いていたら物を持つ時に不便です。
両手が反対方向で内側に向いているからこそ
物を持ったり、拍手したりする時に便利なのです。

5本の指の長さもみな違います。
違うからこそ、指の関わり方によっては、
細かい作業もできるし、
複雑な動きにも対応できるものです。
手を握る時も安定感があります。

電気はプラスとマイナスが一つになると
エネルギーが発生します。
プラスとプラスが合わさっても何も生まれません。


  違いは補完のために必要

このように、神の創造の観点から見れば、
「違うこと」が悪いのではなく、
「違うこと」が必要なのではないでしょうか。

違うものが互いに「補い」「協力し」「連携する」ことで、
単独ではできないことまで可能になります。

人間関係でも同じことが言えます。

夫婦を見ても、男女の違いがあります。
陽性(プラス)と陰性(マイナス)では全く違いますが、
違うからこそ、協力することによって
不可能なことが可能になり得るのです。

その中でも最も神聖な事が「子供の誕生」です。
子供は夫婦の愛の結晶とも言えますから、
夫婦における男女の違いは
「愛のために存在する」と言えるのです。

夫が感情的に激しい性格で、妻が温厚な性格であれば、
どちらか一方を基準にすれば葛藤の要因となりますが、
二人をセットと考えれば、「補完する関係」であり、
「調和する関係」となります。

結婚した夫婦が同居生活をすると、
今まで気付かなかった違いを発見することがあります。
それは意外なことではなく、当然のことです。

違いは不幸の要因ではなく、幸福の要因です。
互いが自分と同じものしかなければ、協力する意味がありません。
違うからこそ、新しい可能性が広がります。

ですから、「違いは愛のために存在する」ということです。

互いの違いに感謝し、尊重し合い、受け入れていきましょう。
受け入れることこそ、愛が深まる始まりとなることでしょう。

家族の絆づくり 125
違いは愛のために存在する
ナビゲーター:阿部 美樹
違うことをストレスと感じる人たち


このコラムを読みながら、金子みすゞの詩、
「みんなちがって、みんないい」
この一節を思い出しました。

詩の中では、
「鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい」
そのようにありますけれど、
阿部局長が言われているのは、
人間関係、特に夫婦に関してのことです。

男性と女性、特に夫婦というのは、
同じ人間なのに、違う生き物のように思うこともあったりします。
「違うことがいいことなんだ」
そう達観できるには、時間がかかるというか。。。

ちなみに、ブログは夫婦共同作業です。
私が記事を選んで、題目、写真、レイアウトは妻が担当です。
最後に私がコメントを書くのですが、
今回、書いた後に題目を見ると、「みんな違ってみんないい」
なんだ、同じことを考えていたんだ・・・
だいぶ似てきたのかも(笑)

神様の愛を現すことができるように、
一つになる素晴らしさを実感できるように
日々、精進が必要ですね。







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2020年07月23日

み旨に疲れない私になるために〜神からの「恨」の補充?! 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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李ヨハネ(イ ヨハン)先生のみ言。
「本性の恨(ハン)」、今回が最終回になります。


  恨を補充していくためには

(ハン)を補充していく人であれば
根気よく専念してゆくようになるのに、
そうでないと一時的な所に定着するようになります。

迫害が終われば信仰の意欲が弱まり、
迫害があるときは意欲的に信仰するのがその例です。

また祝福を受けるときまでは一生懸命だったのに、
祝福を受けたら終わりだと思ってしまいます。

勉強も試験のときは一生懸命するのに、
試験でないときはおざなりにします。
また学生時代には勉強しても、卒業したあとは勉強しません。

人はこのように一段階上に転換することができないのです。
一段階ごとにいつも成長しなければならないのに、
やっては途中でやめてしまうようになります。

どうしてそうなのでしょうか。
そういう人は恨の起源を見つけられないからです。


どのように自分を育てていくかということが問題です。

自分の価値観が常に高くならなければならないのに、
その場で満足しようとします。
「こうではない。こうではないのに……」と
常に考えなければならないのにそうできません。

肉身のいやしを受けた人が、もう一段階上がって
「肉身の病気を治しただけでいいのか。
病気になった原因があるのではないか」と考えなければなりません。

イエス様からいやしを受けたあと、
病気が治ったことで終わるのではなく、
主にもう一度相談してみるべきなのに、
病気が治ったことで喜んだのです。

問題を解決したところでストップしました。
いつも目的地に向かっていくところには、ストップがあるはずがありません。
新しい自分の基準に向かって
全力を尽くさなければならないのにそれで満足しようとします。

伝道がうまくいった、よく復興した、
百二十名の目標を達成した……。
それが目的であるかのように錯覚するのです。

 
神のみ旨は、天にのみ孝誠を尽くすという人だけを
この地におこうとするものです。

また霊界に行った人たちを
そのまま捨ておくことができないというものです。
地上の人間を通してでもその恨(ハン)を解くようにし、
すべて肉身を持つ地上人と同じ基準で復帰しなければならないのです。

メシヤはこのところに中心を置かれました。
ところがメシヤに従う人たちは、ただ自分の分野で
目的がなされたかのように考えるのです。

「祝福を受けた。家が建った。食べること、着ることが解決された。
だから感謝しないでおれようか」と言います。
自分を中心としては十分でしょうが。

先生と関係が深くなれないときは、
自分中心に定着してしまいます。

実際私たちは、「先生はこうされるだろうか。
先生は今どのようにしようとしておられるのか」
と疑問を持って、いつもいつも
先生のなさることを知ろうとしなければなりません。

このようにいつも考えるなら、分かるようになってきます。


このような問題に全く言及もせず、
従うこともしなければ、疲れて途中でやめてしまうでしょう。

疲れるとはどういうことかというと、
恨が全て浪費されたということです。
この恨の原動力が、私を無限に引っ張っていくことのできる
原点にならなければなりません。

そうしようとすれば、自分の価値観が
高まっていくにつれて、恨が出てくるようになります。
恨がもっと増えていくのです。

皆さんはまず、無知の恨をしっかりと解かなければなりません。
それを解くことができなければ、それ以上発展できないのです。


また生活圏内で、この人間関係を
円形運動を通して解いていきながら、
父の立場で新しい恨(ハン)の基準を探し出さなければなりません。

現在解けたといって喜ぶのではなく、
もう一段階高めて解かなければならない問題があると考えて、
今まで解いた公式で信じていくなら、また解けるのです。

しかし、今解くことができないなら、
次の段階のものを解くことはもっと難しいでしょう。

自分が責任を持つ問題を痛快に解いていく人、
感謝する心が増していく人、その時その時を逃さないで、
先頭に立っていこうとする人になれば、
心情が豊かになるのです。

そしてより深い恨を探していく信仰路程を歩めば、
自分では得られない力がほとばしるようになります。

私たちの持っている恨が、栄光なる価値を見いだしていく
原点になることを願いながらお話ししました。

本性の恨
一九八五年四月二十三日(火)統一神学校
この説教はチャペルの時間に語られたもの



神様の「恨」、真の父母様の「恨」を知る、
ということはとても貴いことだな、と思います。

ヨハネ先生がおっしゃられるように、
私たちはあまりにも短絡的なもの、
目の前のことに意識がいってしまい、
それを得ることで、すぐに満足してしまいます。

摂理においても
今回の基元節7周年に向かって、
一つの節目を立てるために
み旨にまい進していきましたが、
何か、奇跡でも起こることを期待する、
そんな自分がいるのではないでしょうか。

真の父母様は、
一つ一つ節目を立てられながら、
新たな7年路程、VISION2027に向かって、
歩んでおられます。

それは神様の「恨」を知っておられるからだと思います。
しかも頭だけで「知っている」のでなく、
心から肌身で感じておられるのでしょう。

私たちも目の前のことに一喜一憂することなく、

天の父母様、真の父母様の「恨」を胸に抱いて、
解放するために歩んでいきたいと思うのです。







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