2020年07月13日

私たちの信仰は、私ではなく、神から始まった?! 《天一国時代の信仰生活講座》



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前田千代子講師の
『天一国時代の信仰生活講座』です。


私たちは、さまざまな導きを通して天の父母様(神様)に出会い、
このみ旨の道を出発しました。

そして、信仰生活の出発は、自分自身の中に動機があって
始めたと思われている人もいるかもしれません。

しかし、私たちの信仰の動機は神様にあり、
私たちは神様からの召命を受けた者なのです。

それは一世であっても、二世、三世といった
祝福子女であっても変わりません。
ただし、一世は堕落圏内から、
祝福子女は神の血統圏内から召命されたのです。

召命とは、「神様の恵みによって、
神様に呼び出された」ということです。
その神様の召命を受けて、私たちは信仰するようになりました。

ですから、私たちの信仰の出発点は、
自分ではなく、神様にあります。
新しい使命のために、私たちは選ばれたのです。

信仰の動機は、神様です。
決して自分から始まったのではありません。


聖書に、召命について記した箇所があります。
 
「わたしは地の果(はて)から、あなたを連れてき、
 地のすみずみから、あなたを召して、あなたに言った、
『あなたは、わたしのしもべ、
 わたしは、あなたを選んで捨てなかった』と」

(イザヤ41・9)


「わたしはあなたをまだ母の胎につくらないさきに、
 あなたを知り、あなたがまだ生(うま)れないさきに、
 あなたを聖別し、
 あなたを立てて万国の預言者とした」

(エレミヤ1・5)


神様は、地の果てからイザヤを連れてこられました。
またエレミヤに対しては、生まれる前から召命したと語られました。

イザヤもエレミヤも旧約時代の人ですが、
現代の私たちについても同じことが言えるでしょう。


神様は、私が地の果てにいたとしても、
生まれる前であったとしても、
私という存在があることを知っていらっしゃるのです。

むしろ、私たちが生まれてきたのも、
こうして生きているのも、
神様が生命を与え、人生を与えてくださったからです。

自分自身を自分の目で見れば、
小さく不足で何もできないような私であるかもしれません。
しかし、神様の目から見ると、全く違う私なのです。

待って待って待ち望んで、ようやく生まれ、
今日まで導いてくださった神様がいらっしゃいます。

私たちはそのような神様によって予定された者であり、
時が来て選ばれた一人一人です。
神様が動機となって、私をこの道へと召命されたのです。

教会とは、建物ではなく、そのような
召命された人々が集まる所を言うのです。

また、私たちは一人一人が、
神様から召命された一人一人であり、
尊い神の子、兄弟姉妹なのです。

前田千代子・著
『天一国時代の信仰生活講座』(2)
第一章 神による召命
1. 信仰の動機とは?
(Blessed Lifeより)


この道に導かれたことは、
どれほど感謝であるか知れません。

しかし、時には、挫折というか、
「私なんて、この道に必要な存在なのだろうか」
そう思ってしまうこともあるのではないでしょうか。

「私」は神様に召されたのだ。。。
召命観を持つということは、
信仰が困難になった時、
どれだけ力づけられ、勇気づけられることでしょうか。

天の召命を受けた私であることを
しっかりと自覚する者になっていきたいと思うのです。





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天一国時代の信仰生活講座
真の愛を育む生活信仰のすすめ』

季刊「祝福家庭」誌で10回にわたって連載され、
好評を博した前田千代子講師の
「信仰生活講座」が単行本になりました。
千葉中央修練所で長年、行われてきた
講義のエッセンスが詰まった一冊です。
                  (光言社)


※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。

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2020年07月12日

み言の恩恵を、どんどん増やす相続の仕方と、簡単に失う受け方 《金元弼先生》



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金元弼(キム ウォンピル)先生のみ言、
「悔い改めは出発の時と同じ」より
「み言を自分のものとして伝える」です。


親が食べたいものを食べず、人の寝る時に寝ず、
使いたい時に使わないで、お金をたくさんもうけたとします.
そして親はそのお金、財産を
全部その子供に相続してあげました。

相続したのだから、この財産は
子供のものになっていると考えると思います。
ところが、そうではないというのです。

なぜなら、親はたくさんの財産を得るために、
今話したような苦労した内容をもっているからです。

ところが子供はこういう過程を通じないで、
そのまま受け取ったわけです。
これはその子供の所有物になる条件となるのです。

自分のものとなるためには、親がこういう内容を通じて得たごとく、
子供もそういう内容を通じて初めて自分のものになるのです。
そうすれば、そのお金はどんどん増えていくというのです。

 
それと同じく、私たちは先生からたくさんの恵みを受けます。
み言を受けます。

先生が私たちに与えてくださるのは、
神のため、人類のためにすべてを尽くしたうえで
得たみ言であるというのです。

先生のみ言は、ただ伝え聞いたものではなく、
先生が神のために尽くすことによって得たものです。

ところが、私たちは尽くさないでこのみ言を受けます。
ですから、私たちは色々なみ言を受けて知っているけれども、
そのみ言は自分のものにはまだなっていないのです。
自分のものではなく、先生のものなのです。

神様や親はみ言が子供のものになることを念願します。
神様や親のものですけれども、
それが子供のものになるように念願するというのです。

その願いにこたえるためには、尽くして、
その内容を備えなければいけないのです。
そうしてこそ初めて、み言が親のみ言であり、
また子供のみ言にもなるというのです。


ところが人々は、み言を受けて、
これを自分のものにする過程を通じないで、
そのまま人に伝えます。

そしてその人も、受け取ってそのまま伝えるのです。
受け取って伝えたのですから、
そのみ言は自分のものにならないのです。

自分のものにならないままに人に伝えたのですから、
自分には何もなくなるというのです。

自分のものにできずに伝えると、最後にはサタンが構えているわけです。
そしてそのみ言がサタンのところに行ってしまうのです。

これを神のみ言が地に落ちたというのです。
人間のために与えたみ言が、
サタンのために与えたという結果になるのです。


皆さんが先生からみ言を受ける時には、
「あっ、すてきだなあ、本当に素晴らしい」とだけ思って
受け取るのではなく、一歩進んで、
どうしてこのようなことができたのだろう、
私もその道を行かねばならないと、
こう考えなければいけないのです。

そうすればみ言は、自分のものになるというのです。
どんどんとそのみ言は増えていきます。

ですから、そうでない場合は、
いつも目上の人に聞かなければなりません。
質問してまた聞かなければいけません。
だからみ言を自分のものにする努力をしてほしいと思います。


「悔い改めは出発の時と同じ」 
1975年11月2日 川崎・楚麗邑


み言を自分のものにする・・・
本当に大切なことだと思います。
み言を求める姿勢ももちろん重要です。

孔子は、「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」
という有名な言葉を残しています。

その「道」いわゆる「真理」を私たちは知ったのです。
これはどれほど素晴らしいことでしょうか。
人類が待ちに待った新しい真理を
一方的に与えられた私たちです。

もちろんその真理を伝えなければなりませんが、
重要なのは、「真理の実体になる」こと。

み言を口で伝えるだけでなく、
身をもって示すことのできる、
まさに真の父母様のごとくの道を
たどっていく私たちになっていきたいと思うのです。







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2020年07月11日

恨(ハン)は人間関係でしか解けない?! まずは怨讐、カインから愛する 《李ヨハネ先生》



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天正宮の庭園


李ヨハネ(イ ヨハン)先生の説教、
「本性の恨(ハン)」の続きです。 


 恨は人間関係で解くべきもの

(ハン)の原動力を持たない人が悩むと、
損害を受けて信仰路程で時間を浪費します。

葛藤は、人をどれほど惨めにするでしょうか。
心情的に相当損害を受けます。

ですから人を高める心を持たなくてはなりません。
哀れみを持たなければなりません。
人と合わなくても哀れみの心、
耐える心を持たなくてはなりません。

価値がなくても価値があるごとくに思うことが哀れみの心です。
小さい者でも主のごとくに思うようにならなければなりません。


聖書には、小さい者に冷たい水一杯でも与えよという言葉があります。
小さい者に水を与える心を持たない人は、
主に水を与えないのと同じです。

マタイによる福音書十章40〜42節を見ると、
小さい者にしたことが主にしたことであり、
そのようにしないことが主にしないことと同じであるとあります。

聖書はここに重点を置きました。


人間関係で心情的によく調和できる人が、主の恨を解く者だというのです。
人間関係で解かなければ、解けるはずがありません。

兄弟間で解き、友人間で解き、すべて自分の生活圏内で
解いていかなければならないのです。

理論ではできません。
み言だけでもだめです。
信仰だけでもだめであり、
無形世界を通じたとしてもだめです。

これは、必ず人と人との関係の中で解かなくては
解けるはずがありません。

ですから父と子の関係で結ばれたことは父と子の関係で解き、
夫婦間で結ばれたことは夫婦間で解き、
兄弟間で結ばれたことは兄弟間で解かなけれかりません。
これはほかのところで解けるはずがありません。

 
今日、宗教は贖罪観が本当にあいまいです。

すべてのことが縦的関係において解決されると思ったのに、
ろくに解決されていないのです。

下から解いていかなければなりません。下から……。
カインとの関係から解いていかなくてはなりません。

だから、まず怨讐を愛せというのです。
怨讐というのは、ほかにあるのですか。
一人の兄弟間でも調和できていないことが怨讐です。
心と体が一つになれないのが怨讐ではありませんか。

ほかの人の体が病気になったのに、
私の体に不調和が起こるはずがないでしょう。

私の体の中の不調和が怨讐だ。
そうなのです。
調和がなされなくてはならない環境圏内にあるのに調和できない。

兄弟間、夫婦間、親子間、これが
調和しなければならないのに、できていないのです。
どうにもなりません。

怨讐はほかのところにあるのではなく、
私の家の中の家族だというのです。
これは、調和すべき関係が調和できていないということなのです。

『生活の中の心情復活』
(『信仰と生活 第3集・私の神様』を改題)
第三章 復帰人の本性「本性の恨」   
1985年4月23日(火)
統一神学校
(この説教はチャペルの時間に語られたもの)


現在、世界の人口は、約78億人。
私の人生において、その中で出会う人たちは、
ほんの一握りです。

世界、と考えるのが大袈裟だとしても、
日本の人口、1億2650万人のうち、
出会える人たちも、ほんのわずかなのです。

当たり前のように出会う人たちも
私の人生に必要だから、
意味があって出会っている。。。

ヨハネ先生の言われるように、
貴い一人一人であり、
主に出会う心情で出会っているのか、
ただ単に出会っているのか、
もう一度見つめ直さないとな、
改めて思いました。






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