1976年に、日本で語られた
金元弼(キム・ウォンピル)先生のみ言
「神を慰める者となりましょう」より、
『神と共に苦しむ』です。
☆
そういうことを考えてみると、6000年の間、
たくさんの人が神の身代わりになって、
復帰摂理の責任を果たしてきたと思うのです。
ところがその人たちがその責任を果たしえずして、
摂理をどんどん延長してきました。
このすべての復帰摂理を成就しなければいけない使命を受けたお方は、
どんな道を行かなければならないのでしょうか。
それは並大抵のことではありません。
そういう点からして、さっきの話にもあったように、
つらいことがあっても、その時には、
このつらいことを自分のものとして考えてはいけません。
私たちはつらいことがあると、
ああつらいと考えてしまいます。
つらいことをどのようにして感謝していくのですか。
つらいのにどうして感謝の心が出てくるのですか。
無理です。
そういうわけで、世の中にはもう対策はありません。
つらい時とか心が苦しい時、1、2、3と数えなさい、
そういうことを言ったり色々しています。
しかし、それは非常に無理な考え方であり、
やろうとしても難しいのです。
☆
私たちは神の心情がどれくらいつらいか、
どれくらい苦しいかということが分かりません。
だから神は、私たちにそのことを通じて知らせてくれるのです。
つらいだろう、私はこのようにつらいのだよ、
ということなのです。
誰のため、人間のために私はこんなにつらいのだ、
苦しいのだ、ということを知らせてくれるのです。
なのに私たちはこの苦しみから何とかして
逃れることができないかということばかり考えます。
しかし逃げ道がないのです。
☆
私たちの心の中に、神は私のためにこんなにつらいのですか、
という思いが神に対して出てきた時は、
「このようにつらいけれども、
神はそして先生は私を罰しない、
何も私に言わない」とこう考えるのです。
こういう時に神に対する感謝があるのです。
まず慰められて“自分”が解決できないと、
感謝の念が出てこないのです。
ですから慰めようとしても、自分一人だけつらい、
寂しい、苦しいとするならば、これでは道がないのです。
逃れる道がないのです。
ところが私がいやなのは、また神の心でも
あるとするならば、慰めになるというのです。
☆
というのは、相対基準ができて授受作用ができるからです。
一人だとすると、私はつらいつらい
という世界に押し込められるのです。
一人だけでいるので、寂しいと思うのです。
一人だけでいるということは非原理的であるというのです。
だから早く原理に入れということなのです。
だから原理に帰るためには相対者がいなければならず、
授受作用をするそういう相対者がいなければなりません。
だから悪いことをした人は苦しいのです。
しかも非原理的です。
けれども、そういう悪い人の仲間が見つかれば、
そこで慰められるというのです。
私たちは、天のお父様の子であるとするならば、
天のお父様は善なるお父様ですから、
善の授受作用が起こり、慰める授受作用が起こるというのです。
☆
その次は、私よりも高い基準の主体者がいらっしゃることを知って、
そのお方は私よりつらいことがあっても、
私のために、自分がつらいとは言わないで、
かえって私を慰めようとしている人であると考えついた時に、
ここにおいて感謝の念がわき起こるのです。
そうした時に、感謝できた人には
つらいという言葉がなくなるのです、自然に。
もうその時には、ちょっと苦しんでみよう、
味わってみようとしても、既に苦しみはないというのです。
なぜならば、一人であると思うから苦しいのです。
ところが一人ではなく二人になると、
その苦しみを再び求めようとしても、求められないのです。
そこで感謝が出るわけなのです。
『伝統の源流−主と歩んだ教会創立以前の道』
金元弼
(「神を慰める者となりましょう」
1976年4月4日東京教会)
※本書は、『信仰と生活第二集伝統の生活化』
を改題したもの
金元弼
(「神を慰める者となりましょう」
1976年4月4日東京教会)
※本書は、『信仰と生活第二集伝統の生活化』
を改題したもの
☆
元弼先生は、「つらいという言葉がなくなる」
と語られていますから、どんなつらい時にも、
神様を慰めていかれたのだな、と思います。
それがイエス様が歩まれた道であり、
真の父母様が歩まれた道なのだな。。。
改めて思わされました。
私は、「神の子である」という自覚を持つこと。
それはどんなときにもそうであり、
さらに言うならば、
大変な時、困難な時ほど、
持たなければならない、と思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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