1976年に、日本で語られた
金元弼(キム・ウォンピル)先生のみ言
「神を慰める者となりましょう」より、
『より愛ある人に主管される』です。
☆
もしここに、持ち主よりその存在を愛して
価値あるものとして大事にしてくれる人がいるとしたら、
すべての存在の主人は、
その存在を自分のものとしたいと思わず、
愛してくれる人のものにしたいと思うのです。
自分自身をもあなたのものとして上げたいというのです。
そうすることによって喜びが生じるというのです。
☆
そういう方が誰かというと神であるというのです。
神が、神御自身のためより
私のためになってくれるということを知る時、
「あなたのみ意のままにしてください」と言えるのです。
ですから先生が常に私たちに言ってくださるのは
そのことなのです。
☆
人をアメリカに送る時、あるいは宣教師を送る時にも、
「あなたはその国の人ではないけれども
アメリカの人となって、
アメリカの人がアメリカを愛する以上の
愛でもって
アメリカを愛するとするならば、
アメリカは神の愛する
あなたの国となることでしょう」
と言われるのです。
ですから、先生が日本やアメリカに出発する時にも、
そういう心持ちで、そういう心情で今もなお働いていらっしゃるのです。
先生はアメリカに行かれると、アメリカで一番苦労し、
アメリカのために非常に尽くした人はどういう人か、
それをまず探し求めるのです。
そこで、その国に対してその人が尽くした以上の
愛と心情をもって力を尽くしていくならば、
必ずアメリカは神に帰るというのです。
☆
誰でもすべてを自分のものにしたい、
何もかも自分の心のままにしたい、という心があります。
それは自分中心の思いから出るのではないのです。
悪い心ではないのです。
元々そういう心を神が与えたのです。
人を通じて神の愛を受けたということがありますか。
直接受けた愛です。私たちは直接の神の愛に触れたいのです。
ですから神の愛を、私を通じて
すべてに与えたいと考えているのです。
その考えが悪いのではないのです。
神から与えられた考えです。
☆
そうなるためにはどうしなければならないかということが問題です。
そのことを考えないで、私を通じて
すべてに与えたいということだけを考えてしまうのです。
だから結局、願うごとくにならないのです。
私はこうなりたい、ああなりたいと言いながら
どうしてそうならないのですか。
そのためには、まずもって、神のためになることです。
そして神のためになることによって、
私を通じてすべてに与えるのです。
私たちにまずもって犠牲、あるいは
奉仕を強調するのは、そういう意味です。
☆
先生が私たちに見せてくれるのは、今話したごとく、
私のものであるけれども、
私のもの以上に非常に大切に愛してくれ、
とそういうことなのです。
ですから先生が韓国に帰られた時も、
四十日、五十日もの間、韓国に滞在されましたけれども、
その間、朝早くから夜遅くまで、
聞く人がもうこのくらいで
ちょっと休ませてもらいたいなあと思うほど話されました。
それを先生は御存じです。
それでも周りに座っている人の中で、
終わりまで元気な人がいるというのです。
そして、その人がこれで帰っていいというまで、
先生は帰られなかったということです。
その一例として、こういう話をしてくださいました。
『伝統の源流−主と歩んだ教会創立以前の道』
金元弼
(「神を慰める者となりましょう」
一九七六年四月四日東京教会)
※本書は、『信仰と生活第二集伝統の生活化』
を改題したもの
金元弼
(「神を慰める者となりましょう」
一九七六年四月四日東京教会)
※本書は、『信仰と生活第二集伝統の生活化』
を改題したもの
☆
お父様は日本人以上に日本を愛されました。
その心情の出発点がどこから来るのか、
お父様の心情の深さを感じさせていただきました。
また、宣教師の話がありましたけれど、
お父様から宣教の命を受け、
その地で活動された先輩たちの中で、
いまだに、任地で歩んでいる方がおられます。
お父様が、『その地で骨を埋める』ことを
願われていることを悟り、
今もなお、歩んでおられる先輩たち。。。
本当に素晴らしいと思います。
神様、真の父母様は、どれだけ誇りに思い、
喜びをもって、協助してくださっているかしれません。
☆
先日、ある教会長さんが証しをしておられました。
あと数年で、教会長を引退するにあたり、
『最後の任地になる、その地で、骨を埋める覚悟で歩みたい』
修錬会で祈っていく中で、任地を与えられたといいます。
そして、その地で、教会献堂をはじめ、
多くの功績を立てておられるのですが、それは
まさに任地を誰よりも愛し、尽くされているからでしょう。
私たちも与えられた地を
過去の義人、地元の名士の方たち、
誰よりも愛する心情をもって、
歩まなければ、と思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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