1976年に、日本で語られた
金元弼(キム・ウォンピル)先生のみ言
「神を慰める者となりましょう」より、
『誰が主人となるか』です。
☆
昨年のことです。
海に出て、魚釣りをしたことがありました。
この魚釣りに関しては摂理的意義があったことは
御存じのことですので話しませんが、
ニューヨークの幹部の人たちを連れて出掛けられました。
もう本当に元気な人でもそれが十日、二十日と
何日も続きますと、先生が今釣っているのに
部屋の中に入ったり出たり、休んだりするのです。
この船の中で誰が最後まで残るのだろうか、
と心の中で思いながら、熱心に釣っていました。
ところが、その連れ立った者は全員くたびれて、
「海に行こう」と誘うと「何か用事がある」
と言って行かなかったり、行っても
疲れて休んだりしているというのです。
ずっと見つめてみたら、船長がいました。
その一人の人がいつも同じ顔ぶれなのです。
その人だけが残ったのです。
そこで先生は岸に着きました。
そうしたら彼は、まあこれで休むことになった、
と気を楽にしたらしいのです。
ところが先生は、陸に着いたらすぐにお食事を終わらせて、
すぐまた船に帰っていきました。
するとさすがのその人も、本当に疲れたということで、
もうよしましょう、ということになったというのです。
☆
先生は、そういった人々に比べますと、
年を取っておられますが、
若者がいくら力を尽くしても耐えきれないという
その限界を超えるまでは、
御自分からはやめなかったというのです。
そのように、私たちから考えてみたら
くだらないことのように思うかもしれませんが、
先生は釣りをするにしても何をするにしても、
すべてのことに対して心を尽くし、
あるいは力を尽くされます。
誰にも耐えることのできない心をもって
尽くさなければならないと思われて対しておられるのです。
☆
先生は、すべての国にたくさんの宣教師を送って、
命令だけをして黙っておられるのではありません。
先生は、世界の人々が心を尽くす以上の高い次元で、
休まず心を尽くしておられるのです。
家庭では誰が主人になるかといいますと、
主人は中心であり、親ですから、普通は親がなっています。
しかし、もし子供の中で、他の兄弟よりも親よりも
家庭を大切にし、家庭のために尽くす子供がいるとすれば、
その家庭の主人、その中心は、その子供になるわけです。
親があっても、親の責任を子供が果たしうるというのはそのことをいうのです。
幼い子供であっても、親がその家の中心になれずして、
あるいは兄さんがなれずして、末っ子の弟がなることがいくらでもあるのです。
同じように、み旨を知っている私たちは、
教会長だから教会の主人であると言います。
もちろん形状的にも性相的にも主人でしょう。
しかしもしその教会長が、中心でありながら、
その教会を大事にすることができなかったとします。
教会の人々も全部がそうであるとするならば、
その教会の主人は誰がなるでしょうか。
誰もなれません。
その主人は、サタンがなるというのです。
世の中でも、親兄弟がみんな家を大事にしないとしたら、
他の人がその家を大事にします。
下僕が大事にしたら、その家の主人は誰がなるのですか。
下僕がその家の主人になるというのです。
世の中には、そういうことがいくらでもあります。
教会長であるからこそ、誰よりもその教会を愛さなければいけません。
ところが、それをせずに、その教会を支えるために
教会長以上にその教会を愛し大事にする兄弟がいるとするならば、
その人によってその教会は支えられていくのです。
『伝統の源流−主と歩んだ教会創立以前の道』
金元弼
(「神を慰める者となりましょう」
一九七六年四月四日東京教会)
※本書は、『信仰と生活第二集伝統の生活化』
を改題したもの
金元弼
(「神を慰める者となりましょう」
一九七六年四月四日東京教会)
※本書は、『信仰と生活第二集伝統の生活化』
を改題したもの
☆
お父様の精誠の基準というものは、
本当に頭を下げざるを得ないものだと思います。
かつてアブラハムが象徴献祭に失敗したのは、
鳩を裂くのは、僕に任せたからだということでした。
牛や羊は裂いたのに、鳩は裂かなかった・・・
本当に小さなことをおろそかにした、というのです。
真の父母様は、大きな摂理を動かされる方ですが、
半面、コツコツと小さな精誠を積み重ねていかれました。
私たちも主人意識をもって、
精誠の積み重ねをなしながら
教会を愛するものになっていきたいと思います。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)