2020年12月22日

「大海原のような平安を感じますか」ワーク解説と証し 《自己牧会プログラム》



201222.jpg


先回紹介した、1番目のワーク
「本然の自分を感じる」ワークの解説です。


【WORKの解説】

お父様もお母様も、
「許し、愛し、一つになりなさい、感謝しなさい」
とずっとご指導してくださいました。

これは私たちのあるべき姿を教えてくださっているのです。
「本然の自分亅が行くのは、そういう道です。

そのみ言を、ただ読んだり聞いたりするだけでは
流れていってしまいます。
心で感じて実践すれば、言を体恤することができます。

そこで、皆さんにはイメージして、
まず心で感じてみてほしいのです。
次の内容に沿って想像して、感じてみてください。


  許し、愛し、一つになる、感謝する

すべてを許している自分って、どんな感じがするだろうか?

「許せない」という思いに囚われた自分の意識が
どんどん薄くなって、すべてを受け入れている自分って、
どんな感じがするだろうか? 
すべての人、すべてのことを許して、
受け入れている自分って、どんな感じがするだろうか?

想像することで、大海原のような平安を感じたなら、
それを生活の中で実践しなければなりません。


そうした上で原罪を清算し、本然の血統に連結してこそ
「正午定着」(心と体の統一)、
心に影がない状態へと至っていくのです。

「正午定着」した人間になり、
人に対して、むやみに批判したり、
理由もなく良し悪しを判断したりせず、
ありのままの姿を受け入れ、すべてを許す、
罪の痕跡のない世界に至らなければなりません。


では、愛するということを感じてみてください。

出会う人、一人一人に対して、喜んでもらいたい
という気持ちで、喜ぶようなことを言ってあげて、
その人が喜んで、感謝してくれている。

多くの人に喜んでもらって、感謝されている。
そんな自分を感じてみてください。

どんな感じがしますか。
平安な心の土台の上に、ワクワクするような心情が、
自分の心の中から、湧いてきていませんか。

あなたの得意なことで、
人の心に花を咲かせていくことができたら、
そして多くの人が喜んでくれて、感謝してくれたら、
ワクワクするような気持ちを感じませんか。

これが、平安な心の土台の上に出てくる本性です。


*「本然の自分を感じる」ワーク実践の証し*

皆、喜びを共有したいだけだと分かった!

                  
〔40代/男性/Kさんの実践報告〕
公務の中で、突然かつ緊急で、
慣れない映像編集の仕事を依頼されました。

日常業務でもいっぱいいっぱいの中、
映像編集も質の高いものを求められました。

通常業務も滞りがちになり、
「なぜ自分だけがこんなに忙しいのか!」
「このままではすべてが崩壊してしまう!」
という恐れが湧いてきました。

そのとき「思いどおりでなくても大丈夫」と唱えていくと、
「本然の自分を感じる」ワークを思い出しました。

この現状のままでも、
「すべてを受け入れて許している自分。
大海原をイメージしつつ、この業務を通して
皆が喜んでくれている姿」を
イメージしてみました。

この映像の編集を通して、「多くの食囗の復興があるな、
そうなったらありがたいな」と感じ取っていくと
平安に導かれ、業務に集中でき、
良いものを作り上げることができました。

自分を中心とする思いは、
「失敗したら何と言われるのだろうか」と
不安を作り出し続けますが、
本当は誰も私を責めていないのだ、
皆が喜びを共有したいだけなのだと理解できました。

本当は「今ここ」に天国があることを実感できました。

(一部割愛しています
文責:ten1ko2)

「信仰生活補助教材 自己牧会プログラム
『囚われの自分』からの解放を目指して」
第1章 心のしくみ
1.自己主管
WORK1「本然の自分を感じる」ワーク


今回は、四つのテーマの中で、
「許す」と「愛する」というところを紹介しました。

以前、家庭教育部長をされていた多田先生が
「思いの列車」という話をしていたことを思い出しました。

マイナス的な「思い」に囚われている時、
その「思いの列車」を降りなければならない、
ということです。

ワークをすることは、
このことと同じだ、と感じました。

証しにもあるように、
負の思いになった時、
ワークを自分を客観視することで、
心情が転換されて、導かれていくのだ。。
そのように思います。





にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村
良い記事だと思った方は、
応援のクリックをお願いします!

(なお、記事冒頭の哲学・思想ブログのバナーも
ブログ村のバナーとなっています
どちらからでも応援して頂けます)



※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。

さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)


posted by ten1ko2 at 06:45 | Comment(0) | 自己牧会プログラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年12月21日

思っても、これがなかなかできない / こういう祈りが聞かれる?! 《李ヨハネ先生》



201221.jpg


李ヨハネ(イ ヨハン)先生の「信仰と生活」より、
『犯罪行為の転嫁』です。


今まで堕落した人間は、
悪いのは、「あの人がやった」、
いいのは、「私がやった」と、
人に褒められそうなものは、
「自分がそこにいたからそうなった」と思うし、
どうも困ることが起こった場合には、
「私は知らないのだがなあ」と自分を正当化するのです。

それは堕落の心ですが、
本当の、本然の心はそうではないのです。


イエス様がこういう時に、
「世の罪は私が負うから」とおっしゃったのは、
全然私たちと反対です。

私たちは、この世が滅びなければならないとか、
私は聖なる者だが、この世はどうも汚いとか、
この世に対して不平を言ったり、
この世を裁いたりするのですが、
イエス様は、裁くのではなく、責任を負われたのです。

だから、自分が責任をとり、
良いものは人に誉れを返すのが信仰者の立場なのです。

これが、なかなかできないのです。
難しいのです。

理論的には、「それもそうだ」と思うけれども、
実際ぶつかってみれば、
すぐ、自分も知らないうちに
自分を隠してしまう時が多いのです。


しかし、そこをはっきり自覚した時、
泣きながら祈ったなら、
天から協助してくださるのです。

祈りは、自分が堕落性に捕まって失敗した時に、
「神様、こういう時にこうなりました」と
実情を報告すれば、神様が天から
その面を補助して、協助してくださるのです。

だから、祈りというのは、
具体的に祈らないと、その返事が来ないのです。

伝道するのも、一回ぶつかってみて、
その人のために祈りながら日本を祈るとか、
迫害を受けながら、蔑視されながら、
その人を思って祈りながら、人類のために祈るのです。

だから、実体の条件がない祈りは、
全然聞かれないのです。

信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則
「心情開拓」
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)


『迫害する者のために祈れ』
イエス様も語られ、実践していかれました。

また、真のお父様も
同じ歩みをしていかれました。

私たちは、堕落性が強いので、
あえて否定的な環境を与えられ、
感謝して乗り越えることを通して、
イエス様や真の父母様が
通過された道を歩むのだ、と思います。

ただ、最近は、伝道においても、
直接的な迫害は少なくなりました。
内的な迫害、と表現したらいいのでしょうか。
無視、無関心な方が増えていると思います。

いずれにしても
負の思いにとらわれる時、
真の父母様の勝利圏に近づくために
祈りをもって、乗り越えていきたいと思うのです。





にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村
良い記事だと思った方は、
応援のクリックをお願いします!

(なお、記事冒頭の哲学・思想ブログのバナーも
ブログ村のバナーとなっています
どちらからでも応援して頂けます)



※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。

さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)


posted by ten1ko2 at 08:28 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年12月20日

(証し)私が文先生をメシアだと確信した理由(わけ)?! 《中村信一牧師》



xmas021.jpg


もうすぐクリスマス。。。

キリスト教の牧師でありながら、
早くから文鮮明先生を
真の父として受け入れられた
故中村信一牧師の証しを紹介します。

真のお父様を、再臨主として
どのように確信されたのでしょうか。


わたしは文先生をメシヤであると確信してから、
今まで一瞬たりとも疑ったことはありません。
そのことをどうして確信するに至ったかをお話しします。

わたしは五十年間、いかなる迫害があっても聖書を捨てず、
牧師として過ごしてきました。
今日も統一教会は、迫害を受けていますが、
初期はもっと激しい迫害の中にあったのです。

そのようなとき、ある週刊誌を手にしたのです。
そこには、統一教会のスキャンダルを暴露するために、
統一教会の会員が寝泊まりしているホームに、
新参者を装って進入した人の証言が掲載されていました。

その記事を見て、驚きました。
男女問題のスキャンダルを暴こうと入ったその人物は、
男女問題を一つも発見することができなかったというのです。

人間が堕落するときは、やはり男女問題です。
この男女問題を勝利したか、あるいは皆無でないにしても、
男女が同じ屋根の下に生活していながらも、
清い関係を保っていけるというこの団体に、
大変素晴らしいものを感じたのでした。


ところで、わたしは牧師ですから、
文先生が究極の救い主であるかどうかは、
聖書にその根拠を求めざるを得ません。

その秘密を聖書から見つけることができたとき、
それはどれほどの喜びであったでしょうか。

旧約聖書の「詩篇」第六八篇四節には、
次のように記されている箇所があります。

「神のみまへにうたへ その名をほめたゝへよ
乗て野をすぐる者のために大道をきづけ 
かれの名をヤハとよぶ その前によろこびをどれ」

上記の文は、文語体ですが、口語体のある聖書の訳は、
次のようになっています。

「神にむかって歌え、そのみ名をほめうたえ。
雲に乗られる者にむかって歌声をあげよ。
その名は主、そのみ前に喜び踊れ」

同じ箇所でも、このように訳が違うのです。
わたしは学生時代、ヘブライ語を学んでいたため、
なぜこのように訳が異なるのかが、よく理解できるのです。

前述した文語体の「野をすぐる者」とは、
「荒野(路程)を勝利した者」という意味ですが、
ヘブライ語では、「雲に乗ってくる者」と同じ言葉なのです。

ですから、来臨のメシヤは、「荒野路程を勝利されるかた」
でもあられるという解釈ができるのです。


人間は、自分を愛するという
自己保存の本能的なものを持っています。

ですから、文先生が自ら進んで
荒野四十年路程を乗り越えられたということに、
わたしは本当に感動したのです。

韓国でのキリスト教の摂理が失敗したとき、
なぜ、命を懸けて北朝鮮に行かれて、
今一度、伝道活動をしなければならなかったのでしょうか。

興南硫安工場で、死の峠を幾度も越えるような道を、
なにゆえ行かなければならなかったのでしょうか。
人間はだれでも、自ら選んで荒野路程を行く人はいません。

これらのことを研究してみるときに、
「荒野路程を勝利された文先生は、来臨のメシヤである」
ということが、はっきりと見えてきたのです。



ある日、中村牧師が、早朝祈祷会を行っている最中、
『不思議な団体の青年たちが参加してきた』そうです。
それが統一教会との最初の出会いでした。

多くのクリスチャンたちが、『この団体とは関わらないほうがいい』
そのように言われていましたが、何か興味を持ったそうです。
最初の出会いは、松本ママ。

そして、講義の終末論に感動しました。

「キリスト教の終末は、一般的に
 天変地異が起こることを意味しています。

 ところが、「統一原理」での終末は、
 “すべてのものが破壊されるのではなく、
 新しい秩序がそのときから始まる”
 という内容でした。

 それを聞いて、わたしは非常に感動したのです」


イエス様を信じるクリスチャン、
しかも牧師ともあろう方が、
真のお父様を受け入れるのは、簡単ではなかったでしょう。
お父様もこのような方が来られたことが、
どれほどうれしかったことでしょうか。。。

中村牧師の証しは、また、
不定期に紹介させていただきます。


お父様のみ言

荒野路程で押し寄せる風を
避けようとして逃げれば、
荒い鳥のえさとなってしまう。




イエス様がサタンを屈服させる方法として
「柔和謙遜になれ!
従順屈服せよ!
犠牲的奉仕をせよ!」
と教えてくれたのである。


「御旨の道」より




にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村
良い記事だと思った方は、
応援のクリックをお願いします!

(なお、記事冒頭の哲学・思想ブログのバナーも
ブログ村のバナーとなっています
どちらからでも応援して頂けます)


s-nakamura.jpg


 中村信一牧師略歴

1910年1月27日、新潟県北蒲原郡水原町に誕生。
1935年、同志社大学文学部神学科卒業。
その後、日本基督教団沼津教会、京都鴨東教会、弓町本郷教会で牧会。
終戦後、独立して超教派世田谷聖書教会を設立
(その後、日本基督和協教会に改称)
同教会主管牧師、日本超教派基督教協会会長、
彩墨創画会会長、文学博士、神学博士。
1997年11月4日、87歳で昇華(聖和)。



※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。

さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)